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文章に良し悪しはない。伝える気があるかどうか。20230224fri246

1691文字・30min


ちょいちょいハウツー本を揶揄していますが、特定の作家を言っているわけではありません。

後進に優しく示唆を与えている下記の方のnoteは一読者として読んでいます。

人気もフォロワーもぼくのnoteとは比べるべくもありません。

ぼくのフォロワーはバラエティに富んでいて「純粋なロハの読者(本当にいい意味で)」。

■さて、ニジマルカさんのページのまとめから。
褒められるのに結果が出ない人がいる

  1. 文章だけが上手い人
    文章が上手いだけで受賞することはない

  2. 上手いのズレている人
    自分ではなく読者を優先する

  3. 褒めあっている人たち
    褒めるのは大切だが相手を縛るためではない


ここで再度、断っておきますが、ぼくはニジマルカさんのnoteは好意的な一読者です。

以下は、ぼくのnote読者へ向けて書きます。

ぼくはちょっと違うんじゃないかと思ったんです。
ぼくの元師匠の弟子は直木賞を獲りました。
ぼくが思う三つのタイプは
そもそも作家になろうってやつは、

⑴作家になる前提で生きている。


作家になる。それは事実だ。夢でもなんでもない。横にいるやつを蹴落としてでも。師匠を裏切ってでも。何がなんでも。


⑵文章に良し悪しはない。伝える気があるかどうか。


どうやったらもっと伝わるか。これしか考えてない。
ぼくは芥川賞全集の一巻「蒼氓」(石川達三)から「スティルライフ」(池澤夏樹)までの選評をざっと読んだことがありました。印象はただただ恐ろしかった。選評者は小林秀雄、川端康成、井伏鱒二、坂口安吾、日本の文豪たち。みんな言うことはおなじ。

この作者は伝える気があるのか?


最近では選考委員を引退するまでまったくおなじことを言っていたの石原慎太郎さんと村上龍さん。「この作者は読者に何を伝えたいのか?」これしか言ってない。「文章はデビューすりゃあ、どうにでもなるんだ」「何がなんでも伝えたいことがありゃあ、伝わるように努力するだろうが」
そこで自己満足が出てきて「こんな軟弱な言葉じゃあ伝わんねえよ」と正確な日本語を求められる。と言うパターン。もちろん投票制で多数決制だから他の受賞者はいます。


⑶「大いなる助走」筒井康隆・著

映画
原作

筒井康隆の「大いなる助走」。これは同人誌の内部を赤裸々に語った今でいう暴露小説。1980年代に大ベストセラーになりました。
ぼくはLINEの、とある「小説グルチャ」に2週間、在籍していました。そこはお山の大将の集まりでただの傷の舐め合い。マジでひどかった。ぼくは文章の限界に挑戦しているだけなのに、素人の印象で「なんでこんな、エロすぎる!」「不道徳だ!」「非常識すぎる!」(じゃあ常識をどうやって書けっていうのか?)、ひどいくて思いだして笑っちゃうは「東大卒以外、小説は書けない!」と断言した人がいました。当人はというと東大でなくどこかの旧帝大卒という肩書きでしたが。そんな話をプロの作家に相談したら「それは筒井康隆が書いてるよ。1980年代の奴らがまだ居るんだねえ」と笑われました。ソッコー離脱して弟子入りしたわけです。

ただ、これは小説スクールもおなじです。こっちは金を払って読んでもらうわけです。お金もらって忖度なしにガンガン言ったらリピーターはいなくなります。落語じゃないけれど、接骨院やカイロプラクティックやヤブ医者とおんなじ法則で、一発でダメなところをすべて治したら「いきなり新人賞受賞」。商売は成り立たない。語弊があるかもしれないがある程度ヤブでないといけない。

■ぼくの補足。
近年は芥川賞受賞者は小説スクール出身ばかりです。
もちろんそれは仕事をリタイヤした後に再度、昔の夢であった小説家(あるいは小説を書いていみたい)と言うリタイヤ組(45歳以上はみんな元国語教師など)の大躍進がある。
それと、フツーに小説学校で優秀な指導者に恵まれて受賞(村田沙耶香さんなんか朝日カルチャーセンターじゃなかったかな)。エンタメ系であればオンラインで「大阪(ほんわか1980年代の予備校のような雰囲気)系」「ガチガチのロジック教える東京系(ハリウッド式かな)」があります。


■もしニジマルカさんが不快な思いをされて要請があり次第この記事は削除はします。


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