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【漆黒・暁月ネタバレあり】FF14における絶望(諦観)と希望(戦い)について

FF14では自分の扱うプレイヤーキャラを主人公とした物語が展開されます。
大人数が同時に遊ぶMMORPGというジャンルで、ここまでストーリーに重点を置いた作品は珍しいでしょう。

そのなかで、一つの大きな締めくくりとして、絶望にあらがい希望を求める物語が展開されるのですが、その大きなストーリーを終えて振り返ったとき、改めてその描かれ方に強い衝撃を受けたので、その記憶を記録するために、ここに書いておこうと思い立ちました。

最新のお話である暁月の一つ前の漆黒のストーリーのなかで、主人公である自分のキャラは、本来の世界線上で死んでしまうことが告げられます。
実際に死んだときの姿も見せられることとなり、なかなかの驚愕の事実でした。

ただ、私はその死を見たときに『うらやましい』と思ったのです。

主人公である光の戦士は、帝国という強大な敵国との戦争に参加していたのですが、敵が開発した大規模毒ガス(というか魔法)兵器による広域攻撃によって、これまで共に戦って来た仲間と共にほぼ全滅の形で死んでしまいます。
しかしその死は決して苦しいものではないのです。
その表情に苦しみはありません。
最も身近で守るべき仲間と共に、自分でもわからないうちに、眠るように、どちらが先でも後でもなく死んだからでしょう。
そこに無念や恨みはなく、ただ、時が停止しただけ。
そういう死だったからです。

もちろん、主人公たちは歴史を変え、生きるために戦います。
自分や仲間はもちろんですが、世界を、知り合った多くの人を護りたい、という思いに突き動かされて戦うのです。

ですが、その戦いの末にたどり着く希望は、大切な仲間たちの屍を踏み越え、先に死したる者たちからの励ましを受けながら、苦しみもがき、涙も枯れ果てて、一歩一歩歩いた先でやっと手にできるものでした。

そうして気づくのです。

FF14で描かれている絶望(あきらめ)がいかに幸福で、希望(信じること)がいかに残酷で苦しいものであるのか、ということに。

多くの物語では、絶望は愚かで、希望は輝かしく描かれるものですが、FF14ではそんな単純なものではない、と突きつけて来たわけです。

自分にとって本当に価値あるものは、痛みや苦しみを越え、止まらずに進んだ己の人生の先にしかないのでは?

幸福に人生を謳歌していた古代人たちをあえて分かち、苦難と悲嘆の生を与えたハイデリンの、ヴェーネスの言葉。
絶望と戦い、自分と小さな命を守りきったマトシャの祈り。

幸福な死を『うらやましい』と感じていた私ですら、彼らの手渡した希望に必ず応えなければならない、と感じました。
たとえそれが、痛みや苦しみの先へとただ進む、それだけのものであったとしても……。

これほど幸福で、これほどに痛みに満ちた、新たな境地へと至らせていただいたことに、驚きと感謝を禁じえません。

それは確かに、新たな視界が開けた瞬間でもあったのです。

FF14のスタッフのみなさま、そして愛すべきプレイヤーの仲間たち、本当に素晴らしい体験をありがとうございました!ヽ(=´▽`=)ノ

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