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ディスレクシアと共感覚ゆえに、生まれたアート

昨日、ディスレクシアと共感覚について書いたこのブログがnoteの今日の注目記事に選ばれたそうで、たくさんの方が読んでくださったようだ。

この時に読んだ銀河鉄道の夜の文章から生み出された映像は、共感覚のおかげかまるで一本の映画を見たように鮮烈に脳内に残されている。

だけどこうやって文章に出すことで現実世界に戻れている気はする。これは、他の小説を読むときにも気を付けないと飲み込まれそうで、まだ少し怖いところだ。

小説を朗読して読むことで、気づいたことがあった。

今までは

ディスレクシアで文字が混乱状態になる→そこを共感覚が補うために文字と視覚や嗅覚などが必要以上に反応し、特に感情的な文章などは(前回でも少し触れたが)吐き気がするほどだった。

「感覚に酔う」という表現がまさにその通りだろうと思う。

しかし、朗読をすると私は、まるで主人公になったかのように銀河鉄道の夜の中に入り込むことができた。感情を込めてジョバンニの想いを読み上げることで、「人から受け取る感情」ではなく「自分から感じている感情」と錯覚し、そしてそれは混乱には至らなかった。

つまり、いつもの自分の感情が絵やテクスチャに見える共感覚が、ジョバンニの感情として反応し、観ることができたのだ。

私は読み終えるとすぐに、ジョバンニが観てきた感情の世界を絵にした。

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銀河鉄道の夜の世界は、本当に素晴らしく煌めいていた。色鮮やかで、ところどころにたくさんの色や光の描写があった。

それを見てきたジョバンニの視線と、カムパネルラへの想い、そして求め続けた本当の「幸い」。

そんな感情を込めた共感覚アートができあがった。

右下部にあるのは、さそり座の炎の描写だ。

夜空で観てきたたくさんのものや、想い。声を出して感情を込めて読んだからこそ感情移入し、そうしてこんな絵が生まれた。

共感覚アートとして感情を絵にすることをはじめたのはごくごく最近だが、自分の感情だけを描ける(人に対しても、その人への私の感情を描く)ものだと思っていた。

でも、こんな風に使えば、人の心に感情移入さえできれば、こうやって、私は体験していないのにまるで本当に観てきたかのような、世界を、想いを、現すことができるということを知った。

これは、アートとして表現するにはあまりにも大きな収穫だった。

これを描くことによって私は小説の世界からデトックスもされ、現実世界に戻りやすくなる。一石二鳥ではないか。

次に読む小説はもう決めてある。少しヘヴィーなものだ。

そこから生まれる自分はどうなるのか。少し楽しみになってきた。


山口葵



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