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茶の味とわたしの人生と朝

実家の離れに住むばあちゃんは父のお母さんで、明治生まれの元気な人だった。
よく近所のお友達と二人でお茶を飲みながら相撲を見ていたのだが、小さいわたしもよくそこに居た。
小学校2年生か3年生くらいの頃である。

地元名産のお茶っ葉を新茶の時期にたくさん買っては1年かけて大切に飲む。農村の片隅にある非農家の我が家では、何度も何度も出がらしの茶葉に湯を注ぎ、それはもうお茶か白湯かの判別がつかない程度まで何度でも注がれた。
「きみちゃんお茶飲まんね?」
「きみちゃん黒砂糖食べんね?」
ちなみにお茶請けは黒糖の塊か梅干しと相場が決まっていて、どれも大しておいしくはない。
当然だが出がらしのお茶だって本当においしくない。

「あらぁ寺尾が負けた!」
「もう引退かねぇ」

地元出身の力士が勝った負けたと一喜一憂するばあちゃんたちの会話に混ざるでもなくなんとなく私はそこに居た。

昔のサザエさんちにあったような木目調の年代物のブラウン管テレビをぼーっとみながらお茶を注いだり注がれたり。母屋で母や弟が何をしていたのかは知らないが、わたしは70歳ほど年の離れた人たちと過ごしていた。

それからしばらくして母が病気になりわたしが離れに顔を出すことは減っていった。
入退院を繰り返す母が家に帰ってくると嬉しくて飛びつきたかったが、母の膝の上はすでに弟が飛び乗っていて大変そうだったのでわたしはなんでもないふりをした。
「弟君は本当に甘えん坊だなぁ!」
なんてお姉さんぶって。
今思うと健気だなぁ、わたし。
ところで我が家の嫁姑事情は良好とは言えず母はいつも実家の海を懐かしがっていた。もちろん父がいないところでこっそりと。
そんな母が気に入っていたのが山の空気と、おいしいお茶だった。

母が帰宅するととびきり良いお茶っ葉を冷凍庫から出してみんなで飲むのだ。
「ここのお茶は本当においしいよね。病院のはまずくてねぇ」
そらぁ病院と比べたらなんでもおいしいだろうけども。

余命半年といわれた母はお茶のおかげ…では絶対にないだろうけど5年頑張ってくれて他界した。
わたしにある遺言を残して。

さて中学3年にして遺言をもらってしまったわけだけど、そんなの構ってられない。なんせすぐに受験だし、父は悲嘆に暮れてる上にいろいろあって無職だし弟はまだ小学生だし。
一生懸命だったわたしは母が亡くなってすぐに学校に復帰。
夏のコンクールに向けて吹奏楽部の活動に精を出した。

わたし副部長だし、みんなをまとめなくては。
「いつも元気で明るい青木先輩」が落ち込んでいたらみんなが心配するから、いつも通りにしなくっちゃ!
そうすべきと思っていつも通り過ごしていたが、今思えば異様なくらいのテンションにに周囲は困惑しただろう。
大人になってから親友が教えてくれた。
「あんだけ一生懸命だとだれも止められないよねぇ」
なるほど。迷惑な奴じゃんわたし。

さてなんとか隣町の公立高校に入学できたわたしだったが、我が家の経済状況はひっ迫していた。
どのくらいかというと、電気・ガス・水道がいっぺんに止まるくらい貧乏だった。

華の女子高生とは程遠い生活をしていたわたしはひそかにハーブティに憧れた。
ハーブ。
庭に生えているのは山菜ではあってもハーブではない。
広義で言えばネギやノビルやニラもハーブっちゃハーブかな。
いや違うか。
そしてある時庭にたくさんはびこっている雑草がミントだと知った。
これハーブじゃん!

ということで手当たり次第にちぎって、洗って、急須に入れてお湯をかけた。

おいしくなかった。

財政難の中なんとか高校を卒業し、紆余曲折を経て実家を脱出。
晴れて一人暮らし(というか彼氏との半同棲)が始まる。

当時仲良くしていたバイト先のおねぇさんがお茶に凝っていた。
なんでも無印のジャスミンティーがおいしいらしい。
まぁるい茶葉にお湯をかけるとゆっくりほどけていき、開ききったら飲み頃だという。
「開くのを待つ時間も好きなのよね~」
うん、なんかいい。
あこがれる。
当時地元に無印良品なんて無かったが、ファミリーマートで無印雑貨を取り扱っていた時代だった。
教えてもらったコンビニに行き、彼氏がいない時を見計らってジャスミンティーに湯を注いだ。
ゆっくり。
ゆっくり開いていくそれを見ながら、私は驚いた。

モルボルみたい」

ちなみにおいしくなかった。

その後彼氏と別れて本当の一人暮らしがスタート。
なんかいろんな茶葉を試すブームを経て結局麦茶に落ち着いた。
その後転職先で出会った年下君と付き合って結婚直前まで行ったはずなんだけど同僚と二股かけられてまた独り身に。

その頃はコンビニコーヒーにハマっていて胃が荒れるまでコーヒーを飲んだ。
コーヒーはもちろんブラック派。
セブンよりローソン派。
なんだか大人になった気がした。


そこから3年が経った今、私は地元を離れ街で暮らしている。
程よく都会なここでの暮らしを私は気に入っている。
縁あって結婚し主人と二人で暮らすようになり、様々な困難もあったけど今4年目を迎え落ち着いたところだ。

ばあちゃんはすごーく元気で95歳まで生きていたが、私が実家を出たころ他界した。
酒・たばこ・金銭問題などなど、これでもかというくらいの問題を起こしてくれた父も昨年他界。
ちょっと世間ずれして育ってしまった弟(31歳)も都会に仕事を見つけ一応自立した。

わたしは30も半ばに差し掛かり20年前のあの日を思い浮かべる。

公代、お父さんと弟君とばあちゃんをよろしくね

病室で二人きりになった時、骨と皮だけになった冷たい手はぞっとするほど力を込めて私を握っていた。
「あんたにしか頼めないから、お願いね。」
「…しょうがないなぁ、わかったよ。」
私の返事に満足した母は手を離すとよかった…とつぶやき眠ったのだが、その翌朝息を引き取った。

2000年の5月3日朝7時21分の出来事である。

それから20年後の2020年5月3日、私は岸田奈美さん主催の#キナリ杯に参加したくてお題を考えていた。
仕事に行く前にゆっくり起きて支度を済ませて。
今日のお茶はレモングラスのハーブティ。
味の無いお茶を好んで飲むようになった。
ちなみに主人は「草茶」と言って飲んではくれない。

しっちゃかめっちゃかの私の人生を、明るい前向きキラキラ風にしてみようかとも考えたがそれは私の人生ではないように思えた。
コミカルに楽しく伝えたい私の貧乏人生だけど、どうしてもここだけは真実私のターニングポイントで、どうしようもなくドラマティックなシーンだったし、何より今日というこの日にほかのお題を書くことなんてできなかった。
しかたない、これもわたしの人生の一部、しかたない!

面白い文章では無かったかもしれないけど、岸田さんのお父さんも中学の時に亡くなられたと知り勝手に縁を感じて書いている。
(なんて下心…!!)

命日には書き終わらなかったのでますます格好付かない私だけれど、今の幸せの礎があのうっすいお茶だったりまっずいミント白湯だったりするのだと信じている。
さてお茶をもう一杯入れて夕飯の準備をしようかな。

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