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「勉強してきなさい」

昭和48年、千葉での生活を終え八戸に戻ってきた私は、4月から某病院に勤務することになった。戻ってきたというよりは呼び戻された感が強いのだが、5年後に父が亡くなったことを考えると、二人で酒を飲みながら話す時間が取れたことは良かったと思う。

「酒を酌み交わす」は、日本酒を飲むときだけにつかわれるが、その当時、父は日本酒、私はビールだったので、酌み交わすとは言えないだろうが、
「お前が男だったらよかった」と父に言われたこともあり、酒のみ同士の付き合いが出来ていたんだろうと思う。母も姉たちも、いわゆる女性であり妻であり、正月以外は酒を飲むという事はなかったので、夜勤以外の日に父親の晩酌に付き合っていたのは私だけだったから。

違う違う!
酒の話ではなく、仕事の話。


八戸に帰ってきてから病院の採用が決まるまで時間がかからなかった。
特別な就活という事もなく、自宅から近いのでここでいいかと思っていた病院にすんなり就職できた。人が足りなかったんだろうなと思う。
3年半ほど勤めたときに看護学校設立の話が聞こえてきた。教員も募集しているという話だったが、私には関係のない事だった。
誰か経験豊かな人が行くんでしょう?くらいに、他人事として聞いていたのだが、当時の婦長から呼び出され、「学校で働いてきて」と言われたときはとても驚いた。
素直に「はいそうですか」という私でもなかったため、「私は臨床で働きたいのに、なぜ私ですか?」と婦長に文句を言ったことは覚えている。
そしたらその婦長、「学校へ行って少し勉強してきなさい。これからの看護には必要だから。いつでも戻ってこれるから」と言った。

「勉強してきなさい」って…見抜かれてたかぁ!

そんな経緯があり、翌年4月から看護学校の専任教員として働くことになったのだ。


その時の婦長は北海道岩見沢出身の方で、看護師の仕事の基礎を叩き込まれた。その日の自分の仕事を終え詰め所でプラプラして居ようものなら、「あなたね、患者さんの所に行ってきなさいよ!」と言われることが多かった。検温係とか注射係とか、そんなことは単なる役割分担にしかすぎず、本当の仕事は、患者さんがどんな思いで入院しているのか、今この患者さんに必要な事は何か?、それを知るためには患者のもとへ行きなさいと言われたのだ。4年間ずっと言われ続け、教えられた。
芯の通った厳しい方だったが、患者さんには優しかった。そして、鰊漬けを作るのがとても上手だった。
定年退職後しばらくしてから札幌の施設に入ったが、今はどうされているのか。
この4年間で教えられた事をもとに、その後私の教員生活が始まる。



次回は教え子の事を書いてみようかな。



長々とお付き合いくださり有難うございます。




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