3不在の住人

アドボカタス 『不在の住人』

『送信履歴』毎回読み切りのスピンアウト ~readerのボランティア 3~

ワタシはreader。
読み上げる人。
訳あって、ボランティアでアドボカタスをしているの。
アドボカタスとは代弁する人。
ワタシなりの解釈では代筆ならぬ代述する人なのだけれども。
言いたいのに言えない人、伝えたいのに伝えられない人、届けたいのに届けられない人、な人って思いのほか、たくさんいるのよね。
私はそんな言葉にならない言葉を読み上げる。


「ばかやろう! このクソ忙しい時にまたヘマやらかしやがったな!」
厨房にひっきりなしに飛んでくる次から次へのオーダーが順番待ちを伸ばしているのに、さばききれない苛立ちの焦りにトキオの失態がとどめをさした。
怒声はキリキリとトキオを締めつける。これが初めてじゃない。日に何度も、下手をすればコックが息を吐き出すたびにトキオは怒鳴られ、罵られる。「おめえみたいに何をやってもダメなヤツはどこに行っても通用しねえよ」、言われる度に辞めちまえと言われているのだとトキオは思った。「何度言っても理解しないグズ、いい加減にしてくんねえかなあ」、こぼされる度に鬱憤のはけ口にされているのだとトキオは思った。
「いいから早く片付けろ! 片付けろって言ってるのがわからねえのかっ」
振り損じて床を覆ったナポリタンが、3人分の注文を無駄にしたことに腹を立て、湯気を撒き散らしている。
ミスしたことよりも頭ごなしに踏みつけられる叱責に畏怖し身震いし石のように固まったトキオに、コックのひとり、藤田が膝でトキオの尻にカツを入れた。小麦粉の袋とバターの塊を手にしている。熟練は、口を動かしながらでも料理の手を休めない。
当たりどころが悪かったか、藤田の膝はトキオの尾?骨を打ち、肉薄の急所が思いのほか強烈な痛みをトキオに走らせた。
顔に出た苦悶は、痛みによるばかりではない。
蹴られた左ケツ、痺れが左足の先まで広がり、立っていることさえままならない。
「す、すみません、痛くって、立ってられません」
巨漢に似合わぬか細い声は、トキオがここ『日常食堂』でバイトをするようになってからだった。
「誰だ、あんな使えねえヤツを雇い入れたのあー」
トキオをよく思っていなかったには藤田ばかりではない。もうひとりのコック、田崎がトキオの背中に鋭利な一太刀を容赦なく浴びせかけた。
内側から鍵をかけ便器にうずくまったら、抑えていたものを抑えきれなくなった。どっと噴き出すほど涙の粒は大きく、途絶えない。
俺はこんな涙を流すまで今日まで我慢していたのか? 自問が内側に入り込み、浸透していく。俺はこれほどの涙を流すまで今日まで我慢してきたのだ、という解答に辿り着いたとたん、涙はさらに奥から溢れ出してきた。

コンコン、扉のノックオン。向こうからバイト仲間のヤマサキが声をかけてきた。
「藤田さんも田崎さんもひっでぇよなあ。トキオ、気にすることなんてないでぇ。あんな罵詈雑言に屈したらあかん。オレたちは単なるバイトや。バイトいうてもバイト以上の仕事はしとるんや、気にすることなんてあらへん」
ヤマサキはそう言って慰めてくれている。だがトキオには、自分自身がもらっているバイト料以上に自身がレストランに貢献しているとは考えていなかった。
俺は足を引っ張っているだけなんだ。
自信という自信を奪っていったこの食堂、何度も見切りをつけようと思った。辞めてやるっ、繁忙の時間帯に啖呵を切って、俺がいなくなることで被る被害がどれほど大きいか、その身をもって知るがいい!

最大化した意地悪で一矢報いろうと考えたこともあった。
だけど、できなかった。そんなことしたら、もっと酷い仕打ちで仕返しされそうだったから。「おめえがいなくなれば、やっとこの職場も良くなるというもんだぜ」、きっとそんな雑言で押し込められる。俺のさよならをいとも簡単に覆す捨て台詞がいくつも浮かんで、俺をことさら執拗に追い込んでいった。
意地悪なんてしたら、間違いなく潰しにかかられる。
結局トキオはそれから間もなくして『日常食堂』を辞めた。どれだけ「もう少し頑張ってみよう」と腹に力を入れても、もう入れるべき気合が底をついてしまったのだ。

経験はトキオに変化をもたらした。か細くはなかったが、正気の宿らない低く平坦な話し方しかできなくなっていた。

飲食店での体験は、10年経った今でもトキオを苛んでくる。就職先を決めるにも飲食店などとんでもない選択だった。一般家庭では無用の40センチのフライパンを振る自分の姿がよぎっただけでも腹わたに炎が灯り渦を巻く、それほど忌み嫌う職業、奥歯はギリと音をたてるほど強く噛み、息が荒くなった。
今なら法律でヤツラをやり込められるのに。復讐心が、追いかけても手の届かなくなった遠い過去のあの時点に向けて、むらむらと燃え上がる。
工務店で平静を装いながら、内に秘めた焔はトキオに“在ってほしくはなかった過去”を否が応でも思い起こさせた。
今の時代なら、あいつらのやった極悪非道を記録し証拠として突きつける。俺が何を感じ、どのような状況に追い込まれたのか、すべてを白日の元に晒してやる。
これは立派な犯罪だ、と。これのどこに「パワハラじゃない」とシラを切る余地があるのだ? そう詰め寄ることができる。詰めて追い込んで恐怖に顔を歪めても、さらに踏みつけてやる。
追いかけてもすでに手の届かない遠い過去に向けて、俺は捕獲の手を伸ばす。
どれだけ追いかけても捕まえられないアイツラに向けて。
トキオは平静の中に怒りを宿し、行けるところまでその怒りを広げた。そして、もうこれ以上広げられないところに行き着くと熱は急速にしぼみ始める。そのようにして毎日が繰り返されていく。

俺の毎日は、果たせもしない復讐に囚われているだけなのか?
ある時トキオはふとそんなことを考えた。藤田も田崎も、今はどこでどうしているかさえわからない。どこにいようと何をしていようと知ったこっちゃない。
その時トキオはひとつのことに気がついた。どこにいようと何をしていようと知ったこっちゃないヤツラに俺は復讐したいと考えていたのか、と。
自分が滑稽に思えた。
それに、とトキオは思う。俺には復讐などできないのだ。ヤツラはもうどこにいるのか、何をしているのかわからないのだから。

人は、自分が他人より不幸だと考える。感じる不幸の度合いに差こそあれ、自分は他人より不幸なのだと。
だから隣の芝生を青く見る。そこに住む青い芝生の住人が不在であろうとも。
藤田と田崎の真意は今となっては確かめようがない。ただ生理的にトキオを受けつけなかっただけかもしれない。あるいはイジメが発散でトキオが犠牲になっただけなのか。

readerが読めたのは、不在の住人にトキオが囚われ続けていたこと。そんな必要はないのよ、と読んだだけ。それをトキオが受け取ったのだった。

この10年、頑なに結び続けていたトキオの唇が、ほんのわずかだけれどもふっと緩んだ。

この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。