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アドボカタス 『ありがとう』

『送信履歴』毎回読み切りのスピンアウト 〜readerのボランティア 13〜

ワタシはreader。
読み上げる人。
訳あって、ボランティアでアドボカタスをしているの。
アドボカタスとは代弁する人。
ワタシなりの解釈では代筆ならぬ代述する人なのだけれども。
言いたいのに言えない人、伝えたいのに伝えられない人、届けたいのに届けられない人、そんな人って思いのほか、たくさんいるのよね。
私はそんな言葉にならない言葉を読み上げる。


いいことと悪いことを胸に抱えた牧子はその日、旭川日帰り出張の足で池袋のピザ・ナポリの丘に向かった。どうしても千夏子に会いたかった。会って話を聞いてもらいたい、牧子はその思いを強く握りしめていた。
滞りなく羽田に着陸し、荷物受け取りに手間取ったことを除けば出張の結果はおおむね良好、羽田を出るのが少し遅れてしまったけれども、この程度なら池袋の不動産屋で働く千夏子を待たせることはないし、多少の時間は捻出できる。

北海道で採取できる鉱物を買い取り、旭川の工房で加工の最終決定を下し、形にしていく仕事。だいたいの方向性は事前にネットで行う。販売と企画の本拠地は東京だが、生産はもっぱら旭川の工房で、主婦パートをネットワークした札幌支社では高級品の仕上げ作業とパッケージング、廉価版製品を組み立てるといった役割分担だ。
牧子は月イチの頻度で旭川もしくは札幌に飛び、商品の確認と鉱物の仕入れ先への挨拶まわり、スタッフとの交流を担う。
日帰りの仕事を終えると帰路のフライトに追われる出張に取りつく島はなく、観光のひとつもこなせないスケジュールに牧子はおもしろくない。「あーあ、途中の青森だとか函館だとか、途中下車の旅をしてみたいなあ」、ここ数年、あたかも口癖のように不満が漏れるのも、目の前に広げられた甘い蜜に手を伸ばしても届かない、そんなジレンマに苛まれてきたからだ。
それでも仕事は続ける。ゆとりを捻出することができなくても、仕事自体はおもしろいしやりがいもある。
文様をどこで切り取るか、菊紋石のペンダントなどで職人と喰い違ったりすると、職人の意見を聞く、私の主張をぶつける、私が市場ニーズを広げる、どっちがいいか双方一緒に悩む、納得のうえ無理を言う、職人は抵抗しながらも無理を飲む、こうした流れで牧子は鉱物をアートに昇華させる。
意見はたいがい牧子の思いどおりのところに着地するが、現場の苦労や思惑は牧子にとって貴重な情報であり、一緒にやっていくうえで忽せにできない通過儀礼だった。
出来上がった商品を目の当たりにすると「マキちゃんの感性にはほんと、舌を巻くね」と、たいがい牧子は現場に感心されることになる。
市場を読む目には自信があった。現場で製品に仕上げる20歳は年上の職人に褒められることも励みになっている。

牧子27歳。
北海道に飛べば婚期を逸したと心配甚だしいが、晩婚もいいところの父菊蔵は自らの経験がたぶんに影響しているのか、結婚は焦らなくても縁は向こうからやってくると呑気なものだ。牧子を授かったのも菊蔵が53歳になってから。娘の結婚に焦燥の色は微塵もない。
「どんと構えてくれているのはうれしいけど、私としてはちょっと複雑」といちど父にこぼしたことがある。
どうした? と尋ね返すので牧子は「その時のお母さんの歳」とだけ答えた。
父は宙(そら)に浮かぶ記憶をたどって、ん、とうなずく。それから「おまえを生んだのは母さんが24歳の時だったか」と聞こえる限界の小声で応じた。
それからすれば牧子は出遅れている。だが父菊蔵は「ま、いろいろあるからな」とまともに取り合わない。娘を心配していないわけではないのだろうが、父はそういう人なのだと牧子は小さくため息を落としたことを思い出した。

その大らかさがあればこその同棲だった。もちろん結婚を見据えてはいたのだが、ここ数週間、相性で真剣に悩み続けている。同年代の健治も責任を持つ立場に昇進し、意識が仕事にのめったようで、甘美で心地よく絡まった男女の機微が解け始め、最近では単なる共同生活者に成り下がっているように思えてしかたがない。そのことを問い詰めても、健治はわけのわからないことを言う。
「好きじゃなくなったんだ。でも、愛しているからだいじょうぶ」
どういうこと?
「ごめん、仕事のことで頭がいっぱいなんだ」
それはわかる。でも、愛しているけど好きじゃないってどういうことよ?
牧子の質問は、うざいと手を振り振り払い落とされ、相手にしてくれない。
最初のうちは我慢もした。しばらくすれば仕事も落ち着く。それまで待とうと忍耐の女に徹すると決めた。それが29回目を数えた日、もう一度言われたら別れようと決めた。
そして翌日、つまり昨日の夜、決断の日が訪れた。

切り出した牧子に、健治は「そう」と答えただけだった。
浮気をされたわけでもないのに、どうしてこんな理由で別れなければならないのか、牧子は悔しくも情けなくてしかたがなかった。
「出ていくからね」
鬼気を伴って迫ったけれど、「わかった」で終わった。

千夏子に聞いてもらわなければならなかった。慰めてほしいとはちっとも思わない。だけど、中学から親友と呼び合う仲の彼女に話すことで、自分の気持ちに嘘はないことを再認識したかった。そうすれば整理もつく。
昨夜、近々時間つくってね、ケンジのことで決心したの、聞いて、と千夏子にLINEした。だが、今日の昼、急だけど今晩時間あけられる? と急遽日時を指定した。今日、会わなければならないのだ。
待ち合わせ時間の20分前に池袋駅に着いた。パルコに寄った。買わなければならないものを仕入れた。

「あなた、本当に別れる気?」
お互い3杯目のスパークリング・ワインを飲み終えるころ、ひととおり話を聞いた千夏子が訊いた。牧子はこうと決めたら曲げる子ではない。千夏子はそのことをよくわかっていた。間違いなく牧子は健治の元を去ることになる。揺るぎのない未来の現実だった。
牧子は力なく、それでも変えようのない運命を受け入れる覚悟をもって数度小さくうなずいた。
千夏子は、健治と牧子と何度も食事の場、飲みの場、歌の場、旅の場を共にしてもきた。器量がよく、よく笑って朗らかで、女性らしさを兼ね備えていながらも筋を通す男気もあるあの牧子に入れ込んでいた健治の態度の急変は、牧子の言うように心変わりしたということなのだろう。
「わかった。わたし、ちゃんとマキコを受け止める」と千夏子は断言した。
「ありがとう。ぜんぶ話したらすっきりしたあ」と牧子は晴れ晴れと伸びをした。
喉につかえて進まなかった食が急に進んで、間もなくあれだけ残っていた料理を平らげた。

「食べたあ」、ふたりで、満腹になったおなかをみせびらかすように突き出しあった。
溜まっていた沈んだ気持ちが話したことで体外に放出され、食べることで消化に向かう。
「ありがとね、チカコ」
「ううん」、なんてことない、と千夏子は首をふる。
「それとね」と牧子が切り出す。「おめでとう」。
オメデトウ? 千夏子には何のことを言われているのかわからない。
たいへんな決断を下したばかりの牧子は、何をトチ狂っているのか? 場違いなことばを口にするものだと千夏子は不思議だった。
「鳩が豆鉄砲を喰らった顔って、きっとそんな顔ね」と牧子が千夏子の表情を指摘する。牧子がわかっていて、わたしが理解できていないものがあるということ? と千夏子は思いを巡らせる。
牧子を観察すると、どこか複雑な様相だった。辛いはずの気持ちに精いっぱいの笑顔をちょこんと乗せているようだったから。笑い出しそうでいて裏側では涙を流している。
牧子は持っていた紙袋を足元の荷物入れから取り出すと「これね」と言う。
不意な展開にまたもや疑問符を浮かべる千夏子だった。「何、それ?」、千夏子にはその意味するところをすぐには察することができなかった。が、そういえば……。

「落ちたら聞いてよね。愚痴のひとつもこぼしたい気持ちになるんだから」と牧子に話していたことを。

2度目の挑戦だった。宅地建物取引士、通称宅建士の試験。
今日が「合格発表および合格最低点」の発表日。だめならその瞬間にメールで知らせると千夏子は牧子に宣言していた。
昼まで待っても千夏子から連絡はなかった。
もしかして、と牧子はサイトに金本千夏子の名前を探した。

「ありがとう」、千夏子は嬉しさが押し出す涙を抑えることができなかった。「覚えていてくれたんだ、こんな時なのに……」。
金本千夏子の名前は間違いなくあった。サイトで牧子は3度確認した。
「宅建合格おめでとう!」、牧子が曇りを取り払ったとびきりの笑顔で合格祝いを差し出した。

「泣きたいのは牧子のほうだろうに」
readerが千夏子の心を読んだ。

この道に“才”があるかどうかのバロメーターだと意を決し。ご判断いただければ幸いです。さて…。