北の教会にて 3

「紅茶おかわりは?」
「……結構です。ありがとう。いい香りで、おいしかったです」
 一通り笑い終えてふうと一息ついた男に尋ねられ、アレクサンドルは特になにも意識しないままに感想とともに礼を述べる。男はそれを聞き、目尻を下げ人懐こく笑った。
「なによりだ。振る舞う甲斐があるな。次は茶菓子でも準備しておこう。甘いものは?」
「……好きです」
「そうか。では、楽しみにしていてくれ」
 言って、満足そうに肘掛椅子にもたれかかる。また来るとも来ないとも言っていないにもかかわらず次回の話を持ち出され、アレクサンドルは気まずそうに上目で男を見やった。おそらくその視線の意味に気付いているであろうに、男はただにこりと笑顔を返すだけだった。
「ところで君、今日はこの後どうするんだい」
「えっ、帰してもらえるんですか」
「帰してもらえないと思っていたのかい? 私はそんなに意地悪そうか?」
 男はするりと自分の頬をなで、わざとらしく口をとがらせ口角を下げてみせた。
「……いえ、そういうわけでは。一応、……不法侵入者、ですからね。俺」
 ふむとうなずいた男は思案するように一度視線を巡らせ、またまっすぐにアレクサンドルを射抜く。
「君が日が昇るまで私に愛をささやき続けたいと言うのならばこちらとしてもやぶさかではないが、夜は眠ったほうがいい」
 もう朝のほうが近いが、と加え、そんなこと言ってないでしょうと顔をゆがませるアレクサンドルの反応を無視して続けた。
「久々の客人だ。せっかくだからこのまま泊っていきなさい」
 言い切ると男はおもむろに立ち上がりカツカツとアレクサンドルの横に立ち、さあ、と促す。
「え、え? なんで? どうしてそうなる?」
「いいだろう。悪いようにはしないさ」
 アレクサンドルの口からこぼれる「『悪いように』ってなんだよ」という言葉は届いていないようで、にこにこと差し伸べられた手はいつまでも引き下がらない。見つめ合うこと数秒、結局押し負けたアレクサンドルが恐るおそるといった様子で立ち上がった。
 掴まれなかった手を不思議そうに眺め、男はそれでも嬉しそうに青年を部屋の外へリードする。 

 緊張でいつも以上に眠れないかもしれないと危惧したにもかかわらず、ベッドに入ってからの記憶がほとんどないくらい驚くほどすんなりと寝入ったのは、極度の緊張状態が一瞬でも解けた瞬間の気絶かなにかだろうか。
 窓から差し込む明るさに普段ならばそろそろ官舎を出る頃合いだなとアレクサンドルは目星をつけ、サイドボードから腕時計をたぐり寄せる。想定していた時間とおおよそ変わらぬ位置を指す針を確認し一度大きなあくびをこぼすと、緩慢な動作で掛け布団を剥ぎ上体を起こした。
 昨晩ベッドに入った時間から考えたら随分早い起床だが、酒が入っていないとこんなものかと次のあくびを噛み殺す。まだ眠気の残る思考で見慣れない部屋を見渡し、徐々に復活する緊張感に睡魔を追い払わせた。
 先を案内されながら暗い中庭を臨むそう長くない廊下を渡った奥の家屋に通され、二階に上がったかと思うと着替えをよこし「バスルームはここ、ゲストルームは一番奥だ。あるものは好きに使っていい。私はおそらく一階にいるから、なにかあれば声をかけてくれ」とそれだけ説明しておやすみ、と男はさっさと階下に降りていった。呆気にとられながらもあまりの展開の速さに説明されたまま風呂を借り、一度階下に顔を出したら困った顔で「早く寝なさい」となぜかたしなめられ今朝に至る。なにもかも疑問のまま寝入った昨晩は気にも留めなかったが、入浴中に整えられたと思われる寝具は清潔で、サイドボードには水差しまで準備されているのだから随分と待遇が良い。
 ベッドを出てラグを踏み、半分ほど注いだコップからグイと一息で水を飲みこむと、アレクサンドルは昨晩の緊張が原因できしむ体を伸縮させた。借りた寝間着をさっさと脱ぎベッドに放ると、準備されていた履き慣れないスリッパを無視してそのまま裸足で床へ踏み出し、肘掛椅子に無造作に引っかけられた脱いだばかりの服に袖を通す。革靴を突っかけ丶丶丶丶全貌を露わにしたそれに腰かけたところで、ちょうど目につく位置にあるチェスト横に吊るされた靴べらを見つけ、イタレリツクセリってやつだ、と知らずくすぐったい気恥しさがこみ上げた。
 ベッドと脱いだ衣服を適当に整え部屋をあとにし、バスルームで顔を洗い寝癖をいなして丶丶丶丶一階に降りると、すでにきちりと身支度を終えた男がソファでくつろいでいた。手に持ったカップと新聞をテーブルに置くと、さわやかに笑って挨拶をよこす。昨晩と違うのは、身に着けたスーツと青い瞳の色だけだ。
「よく眠れたかい」
「……ええ、おかげさまで。自分の図太さに驚くくらいには」
「いいことだ。睡眠は大切だからね」
 朝の明るさにきらきら光る瞳を、どういう原理で色が変わっているんだと疑問に思いながら顔をしかめつつ見つめる。その様子を意に介さず近寄ってきた男は、ごく自然にアレクサンドルの腰に手を回しダイニングへエスコートした。
 アレクサンドルは近付いて感じる仄かな香気にスンと鼻を鳴らす。香水と思われる甘さに嫌悪感はない。
「今日は普通のスーツなんですね」
悪魔わたしがローマンカラーで教会を訪問したら侮辱だと怒鳴られるだろう」
「えっ、教会に行くんですか」
「もう行ってきたよ」
 男はさらりと言ってのける。勧めた椅子にアレクサンドルが混乱しながらも素直に座る姿を見て、またにこりと笑った。
「えぇ……」
「早いに越したことはないからね」
「なにが?」
「君が気に揉むことはなにもない。食事は?」
 質問され少しの間を置き、また流されていると気付いたアレクサンドルがくしゃりと鼻の頭にしわを寄せるのを楽しそうに眺めると、男は返事を待たずに下がり壁で間続きになったキッチンでさっさと支度を始める。
 苦手なものは、という追加の問いに、特にないです、と控えめな声が響いた。
「……というか、ここ、出られたんですね」
「もちろん。どうして?」
「昨日封印がどうのとか言っていたから」
「ああ、あれか。あれは私が閉じ込められていたわけではないよ」
「うん? 話が見えない」
 言っている間にも目の前に昨晩とはまた違う茶器が並べられる。
「私が出られぬように、ではなく、私が私の意志で外の人間が入れないようにしていた」
「……、……ええと?」
「特に教会の人間だ。奴らは”彼”の教会にずかずかと踏み入って、せっかくの”彼”の空気を乱そうとする」
 空のカップをアレクサンドルの前に置くと、困った奴らだよ全く、とため息をついた。
「君が入れたのは”彼”の祝福のおかげだろう。ところでいつもの流れで紅茶を準備しているが、コーヒーのほうがよかったかい?」
 アレクサンドルは矢継ぎ早に入ってくる情報についていけないままに、ただ何度かうなずく。キッチンに戻りながらも体を反らして振り返りそれを確認した男は「よかった。なんせこの家にはコーヒーを置いていないからね」と肩をすくめて背中を向けた。ならばどうして聞いたのだという視線をアレクサンドルはその背中に送る。すでに香る紅茶の気配は昨日のそれよりもずっとすっきりしていた。
「ここに自由に出入りできるのは、私と、”彼”だけだ」
「……そうですか」
 度々出てくる「彼」の正体を聞けないまま、今一つ飲み込み切れない話をまとめようとアレクサンドルは言葉を探す。
「つまり、中央の教会の人たちが入ってこられないようになんらかの封印、あの外の南京錠ですか? をしていたと。でも鍵の保管はあちらがしていたじゃないですか。ああ、ありがとうございます」
 準備された紅茶が目の前でカップに注がれ、その香りのよさに礼を述べる。スタンダードなブレックファーストだから砂糖やミルクはお好みで、とティーポットをアレクサンドルの手の届く範囲に置き、男はまたキッチンに向かう。
「あの不愛想丶丶丶な鎖は奴らの仕業だ。自分たちが入れないからと私への報復から錠をかけたようだが、あんなもの私にはなんの意味もない。邪魔なだけだ。君が鍵を持ってきてくれたようでなによりだよ」
 そういえば、とポケットに入れたままの鍵の存在を確認する。仕事柄その存在を偶然認めて手に入れられた丶丶丶丶丶丶丶スペアを、この男に責められることは内容だった。
「外の人間に封鎖の事実を明確に示せて、こちらとしても好都合ではあったがね」
 そう言いながら軽く焼かれたいくつかのパンや果物、食器をテーブルに並べ、最後にオムレツ、ベーコン、サラダの乗ったプレートをアレクサンドルの前に置く。イタレリツクセリふたたび、と思いながら、アレクサンドルはいつもの濃いコーヒーで流し込む簡素な食事を浮かべて苦渋の表情でぐぅと喉を鳴らした。
「しばらく食料は置いていなかったから、先ほどそろえてきたものばかりだ。時間もなかったからたいした物はないが」
「まさか不法侵入者にこんな……、ありがとうございます。本当は昨日の話は全部嘘で、実はやっぱり天使様なんでしょう」
 その苦い顔を見て添えられた男の言葉に、普段はもっと、かなり適当に済ませているという事実の説明よりも、当然に感謝の言葉が先に出てきた。自分が寝ている間にわざわざ買ってきたらしいという情報にアレクサンドルの背中が丸まる。
「どういたしまして。悪魔ならこれくらいできて当然だ」
 にこやかに言い、男は自分の使っていたカップと新聞を取ってくるとアレクサンドルの正面に座った。食事に手を付けず固まるアレクサンドルに視線と仕草でどうぞと促す。アレクサンドルが小さく礼を返して食べ始めるのを見て、何度目かの満足そうな笑顔をみせた。 

「悪いようにはしなかっただろう」
 いつの間にかハンガーにかけられていたジャケットを広げながら男が言う。アレクサンドルはその言葉に少し気まずそうに口を曲げる。
「むしろこんなにしてもらって、正直なにが起こったのかよくわかってないです」
 礼を言いながら袖を通し、軽く襟を整えられる気恥しさに拗ねたような声がこぼれた。
お気に入り丶丶丶丶丶は大切に扱うだろう?」
 至極当然という言い方にアレクサンドルが今度こそムッとしてみせると、男はおかしそうに声を出して笑った。
「冗談だ。客人はもてなさねばね」
 自分の悪さ丶丶を棚に置いて自らを者扱いする相手に怒るのがどれほどおかしなことかを理解しながら、男のペースに乗せられあおられるままに投げられた冗談を拾ってしまう自分が気に食わないとでもいうように、アレクサンドルが複雑な顔で鼻を鳴らす。それをわかっているであろう男の顔は楽しそうだ。
 日の入る明るい玄関で忘れ物はないか確認され、なにも持ってきていない、とアレクサンドルは肩をすくめた。
「そういえば今日は平日だが、こんな時間まで引き留めてしまったね。早く起こしたほうがよかっただろうか」
「休み、不規則な仕事なんで」
「それは大変だ。ご苦労様だね」
 記憶では外側からいくつかの南京錠と掛け金が飾られていた丶丶丶丶丶丶はずの玄関扉を男はすんなりと開け、扉を押えてアレクサンドルに先を促した。掛け金にただぶら下がるだけの南京錠が目に入る。理屈はわからないが「意味がない」とはこういうことなのだろうとアレクサンドルは一人でむりやりに納得した。
「またおいで。いつでも」
「ええと、はい……」
「そんなに怯えずとも、取って食われる丶丶丶丶丶丶丶わけではないとわかっただろう」
 居心地悪そうにジャケットを羽織り直し、アレクサンドルは顔をしかめる。そんな心配はしていない、という言葉は簡単には出てこない。
「残念ながら、私はそんなに飢えていないんだ」
 からかうような口ぶりにどういう意味だといぶかしがりにらむアレクサンドルを笑いながら、男はまた腰に手を添えて青年を外へエスコートする。アレクサンドルは促されるままポーチに踏み出した。
 来た時に通った教会と家屋をつないでいるらしい廊下から見えていた中庭は昼近くの明るさの中では随分と丁寧に整えられていることが分かり、あまりの印象の差に一瞬そちらに目を取られながらもアレクサンドルが男に向き直る。
「色々と、すみませんでした。あと、ありがとう」
「気にすることはない、迷える子猫ちゃん」
「……名前、教えたでしょう」
 不満そうにつぶやく姿に肩をすくめた男は、なにも答えぬままにはぐらかす。
「……。次は何か、礼を」
「そんなのはいいよ。来てくれれば」
 そんなわけには、と食い下がろうとするアレクサンドルの姿に、男が青い目を細めてまぶしそうに笑う。
「どうせまたすぐに来るだろうし、準備もできないだろう。気にするな」
「それは、どういう」
 男はまたにこりと笑って質問を受け流すと、話は終わりだと言うようにひらひらと手を振った。
「それじゃあ、また。次は遅すぎない時間においで。気をつけてお帰り」
 アレクサンドルは言われた言葉に呆気なく終わった一夜のできごとを一瞬で反芻し、今まさに目的としていた人物に見送られていることに混乱し固まったかと思うと、少しも自分のペースを取り戻せなかったと気付き顔をしかめつつ別れの挨拶を口にした。

2021.11.28 初稿
2024.01.27 加筆修正