Tu fui, ego eris. 3

 何度か分岐路で迷いはしたもののほぼ最短距離でたどり着いたそこで、ほらね、とシャルマンが笑った。なんの「ほら」なのか、その言葉を無視して、そういえば花もなにも持ってきていないとアレクサンドルは手持ち無沙汰にただ立ち尽くす。会ったことも、話したこともある、しかしその当時よりも何故かずっと近しくなってしまった、「彼の最愛のひと」の墓前。
 シャルマンはしばらく輪郭をなぞるように墓石を見つめていたかと思うと、しゃがみ込み冷たいそれに触れた。台座の砂埃や枯れ草を軽く払うと、愛しそうに幾度か無機質で冷たい表面を撫でる。
 なんて甘やかな顔をするんだ。
 横で見守るアレクサンドルが息を呑むのに気付いているのか、シャルマンは手を止めると薄いコートのポケットから鈍く光るシガレットケースとマッチ箱を取り出す。
「煙草、吸うんだ」
 かすれて絞り出されたアレクサンドルの声に、墓前でおもむろに咥えた細長いそれに火を付けながら、シャルマンは伏せがちな目を更に細めておかしそうに喉で笑った。
「彼は悪い神父だったんだ」
 自分が問われたと理解しながらも煙草を咥えたままにそう口の端を上げる。夜に溶けるような藍色の瞳に反射したマッチの朱が揺れて消えた。深く長く吸った煙を一度飲み込むと、細く吐き出し、がさつとも繊細ともとれる手つきで墓石の上に煙草を置く。か細く伸びる紫煙がゆらりと揺れた。いつからか風はない。
「私しか知らないがな」
 目の前にその人がいるように人懐こく目尻を下げてそれを眺めると、シャルマンは少し気だるげにも見えるその目をまばたかせながら横に立つアレクサンドルを流し見る。混ざり合う様々な感情に心臓を鷲掴まれた心地でぎゅっと手を握り締め目を離せずにいたアレクサンドルは、その甘えるような上目にぎくりと息を止める。いつの間にか煙草の火が移ったかのごとく赤く光るその瞳には、愛惜と共に確かな喜色が混ざっていた。
「ふぅん……」
 その色の意味も理由もわからずたじろぎ、返事ともつかぬ声を返したアレクサンドルに、シャルマンは今度はその顔を満足げな微笑みに変えて告げる。
「今、君も知った」
 楽しそうにふふ、と息をこぼすと、硬直するアレクサンドルをそのままにまた墓に向き直り煙が揺れるのを機嫌良く眺め始めた。
 もたらされた小さな秘密の共有に感情を掻き乱され動けぬアレクサンドルを置き去りに、幾ばくかの時間が経った。シャルマンは何度目かの強い風に乱れ落ちた濡羽の髪を満足げに掻き上げると、立ち上がり棒立ちのアレクサンドルに向き合う。一度自分のコートで軽く手を拭うと、自分よりもいくらか背の低い彼のぼさぼさの髪を大きな手で軽く整えた。寒くないかい、と声をかけ、顔を覗き込みながらその首に右手を添える。いつもどおりの少し低めの体温を伝える指先と手のひらの感触に、されるがままだったアレクサンドルは我に返ったようにすぐにシャルマンの手首を掴み引き剥がした。大丈夫、と答える声は小さく、慌てて伏せた顔はシャルマンからは窺えない。
 あんな目を誰かに向けていたすぐのち、それと全く同じ温度で見つめてくるなんて。
 男が自分に向ける視線に乗せた感情の質量と柔らかさに間接的に気付いたアレクサンドルが、衝撃のままに詰まる息を吐き出した。
「安心して。私はもう、君のものだよ。君がそう望むのなら」
 混乱する感情を落ち着かせるように頭上からもたらされる低い声の意味に、少し心臓が痛むな、とアレクサンドルは無意識に奥歯を噛み締める。
 つい先程、本人が「忘れない」と語ったその意味を、事実を、今まさに目の前で見せられ痛いくらいに思い知ったというのに。随分とずるい台詞を平気で口にしやがって。
 握ったままの手首がするりと逃げたかと思うとそのまま宙に浮く手を握り返され、熱を確かめるように指を絡められる。普段の自分よりいくらか冷たいとは言え、夜の空気に晒され、かつ強く握っていたために血の気を失い冷えたアレクサンドルの素肌には、シャルマンの体温は間違いなく心地良かった。
「だから、君が望み、私が許すとき、私の大切なものを君に分けてやろう」
「……随分傲慢だ」
「それくらいの方が君は欲しがるだろう」
 シャルマンはくつくつと機嫌良く喉を鳴らすと、握った手はそのままに、顎をさらうようにしてアレクサンドルの顔を持ち上げた。困惑で染まる顔を逸らそうとするアレクサンドルを、夜の色に戻った瞳に明確な慈愛を滲ませながら見つめる。
「ただし、君は私のものだ」未だ混乱を含みながらもその言葉によって合わされた目に満足そうに頷き、低く告げる。「すべて私のものだ。忘れてくれるなよ、サーシャ」
 動揺と、喜びと、畏れと。様々な感情を含んだアレクサンドルのブルーの瞳がかすかに揺れた。それすら褒めるようにシャルマンはまた一つ頷き、長いまつげに縁取られた目を閉じてコツンと額同士を合わせる。
「私は嫉妬深い」
 浮気は許さないといつも通りの穏やで、しかし軽薄にも聞こえる口調でつぶやくと、薄い笑顔に戻った。至近距離にあった瞳が離れていくとともに、持ち上げられた顎が解放される。顔に添えられていた手が今度はくしゃりと柔らかな髪を混ぜた。
「満足させてもらわないと」
 握ったままの手は一度ぎゅっと力を込められ、その熱と形をジンと残して離れていく。
「……なに、浮気って」
「うつつを抜かすなら私より魅力的なやつにしてくれということだ」
 シャルマンはふざけた口調と至極真面目な顔でウインクをしてみせるが、すぐに今のはさすがにくさ過ぎたかな、と肩をすくめて笑った。濃い夜の空気が霧散し、アレクサンドルの呼吸を楽にする。
「……あなたの、最愛のひとの墓前でする話じゃないだろ」
「最愛、そうか、そうだね。でも、いいんだよこれで」
 一度墓石を振り返り、すぐにアレクサンドルに向き直ったシャルマンが喉を鳴らして笑った。煙草の火はとっくに消えている。
「彼と、なにより私自身が望んだことだ」
 二人の間で交わされたであろう「約束」によりもたらされるこの時間を、悪くないと感じてしまうのは自分がほだされすぎているからだろうか。アレクサンドルは微妙な自分の立ち位置や説明できない感情を自覚しながら、それでも笑うシャルマンから目を逸らせない。かすかにしわの刻まれた眉間を揉みながら上目で見つめていると、シャルマンは褒めるような柔和な視線を返した。
「これで一つ、私にも〝区切り〟がついたよ。ありがとう。君はいつも、私にそれをもたらしてくれる」
 シャルマンが満足そうに小さくこぼした言葉が、アレクサンドルの思考をくすぐる。ただ一緒に墓参りをしただけで随分な褒めようだと、照れ隠しのようにため息をついた。
「帰ろうか。夜が終わってしまう前に」
 先を促し背に添えられた手は柔らかくアレクサンドルを押す。
「明日、いや、もう今日だが、せっかくの休日だ。ゆっくりしていってくれ」
「……そうするよ」
「そうだ。もう一つ」
 なにをしたわけでもない、感情の乱れのみによる疲労を自覚したアレクサンドルがその言葉に丸まり始めた背中を伸ばす。シャルマンはにこりと笑って背中の手はそのままに、アレクサンドルを抱えるようにくるりと正面に立った。
「君は、もう私の最愛だよ」
 言葉の意味を理解するのに一瞬の間が開き、アレクサンドルはまばたきすら忘れてまた硬直する。そうしてなんの返事もしないままアレクサンドルが立ち尽くしていると、シャルマンは少し悩み、君の扱いはまだ難しいな、と手を取って歩きはじめた。引っ張られるようにして数歩進んだアレクサンドルが意識を取り戻し丶丶丶丶丶丶丶ブンブンとその手を振りほどくと、シャルマンは愉快そうに声を上げて笑った。再度背に回された手がなだめるようにコートを撫でる。
 ふと男の甘い匂いと煙草の香りを乗せて吹いた風に、アレクサンドルが呼ばれたように振り返った。隣を歩く男に向けたメッセージにもとれる墓石に刻まれた言葉が、本当は誰に宛てたものか、ただのエピタフなのか、アレクサンドルは知りようもない。彼が訪れる未来が約束されているのならそれもきっと悪くないと、アレクサンドルは少しの嫉妬と不安と、それを掻き消すほどの充足感を持て余し、また小さくため息をついた。
「……シャルマン」
「ん?」
 シャルマンは羞恥と憂心を押し殺したようなアレクサンドルの声に気付き、それを無視して返事をする。不安気にさまよう手を諦めたようにポケットに突っ込み、アレクサンドルは目を逸らしながらつぶやいた。
「今日一緒に寝よう」
「夜の墓が怖かったかい?」
 アレクサンドルが言わんとすることをわかっていながら、シャルマンは目を細めて笑う。シャルマンの少しふざけた口調に安心したように眉尻を下げたアレクサンドルが鼻を鳴らした。
「そういうことにしといていい」
 男の手がアレクサンドルの頭を撫で、了解と褒誉の意を伝えた。

2022.05.03 初稿
2024.02.08 加筆修正