詩詞評|『Gas Panic!』Oasis
作品紹介
『Gas Panic!』は<苛まれる罪の意識との葛藤>を描いた作品です。それはどんな罪かというと、作品を吟味する限り、よく分からないというのが妥当だと思います。というのは、主人公自身がはっきりとした心当たりはないと言っているからです。これがネックとなり、この歌はそのストーリーへの具体的な言及が難しいものとなっています。つまり、解釈の余白を多分に含んだ楽曲となっています。
ただ、サビにあたる歌詞は、それ自体独立で抜き出しても通用する上、非常に示唆に富んだものとなっています。本稿では、主に、サビ部分の歌詞に焦点を当てて解釈を行いたいと思います。
読解
サビ部分の歌詞の和訳はこちらです。
やってくるパニックとは当然『Gas Panic!』です。
このフレーズが伝えている端的なことは、<問題は、それが顕在化した時には、どの手立てももう手遅れだ>ということです。つまり、問題に気づいた時には、もう何をしても意味がない、ということです。
少し戯画的に説明します。
<ガス>は、誰にも気づかれず忍び寄ってくる。そして、まずい、と思った時には、もうすっかり<ガス>を吸い込んでしまっている。これが1つ目の手遅れ。さて、それでも生き延びようと、人はそれから行動を始める。しかし、それがかえって命取り。一度取り込んだ<ガス>は、動けば動くほど身体中に行き渡る。生きるために奔走しているにもかかわらず、向かう先、実はそれが死。命懸けの行動にはそもそも勝つ見込みがなかったのです。これが2つ目の手遅れ。<問題は、それが顕在化した時には、どの手立てももう手遅れだ>、だから、「ひざまづいて 祈れよ」、だって、できることと言えばもう、神に祈ることぐらいしか残されていないんだから。
でも、この戯画はあまりにも悲劇的すぎる。
誰か先に気がつく者もさすがにいるのではないか。
この歌が聞き手に問いかけるのは、まさにこの点においてです。
<ガス>に気づいた!みんなに教えなくちゃいけない。それでみんなに伝えてみるとしましょう。しかし、思うにそれは意味のないことでしょう。というのは、誰がその<ガス>の存在を信じるのでしょう。<ガス>は目に見えない。<ガス>で被害者も出ていない。本当に<ガス>はあるのだろうか。きっとみんなは彼にこう言うでしょう。<ガス>なんかないだろ、お前は<バカ>か。「家族はよそよそしく」、取り合ってくれない。
それでも、<ガス>はやっぱりやってきている。とにかく対応しなければいけない。頼むからみんな、窓やドアを開けてくれ!全員でなんとか対応して、しばらくして、それから誰かが言うでしょう。一体私たちは何をしているんだ、何も困ったことは起きていないじゃないか、本当に<ガス>はあったのか、お前は私たちをからかっているのか、この<バカ>が。こうなれば、<ガス>が本当だったかどうかも全く関係はありません。なぜなら、いまさら<ガス>の存在を証明することはできないからです。「家族はよそよそしく」、私を疎む。
さて、誰がこんなストーリーの主人公になりたいでしょうか。
きっと、もっと利口な人物ならば、みんなが取り合ってくれないと分かった時に、すぐに外へ出るでしょう。自分が助かるためです。外に助けを求め、また戻ってくることは望み薄です。というのは、みんなと同じで、誰が<ガス>の存在を信じ、認めてくれるでしょうか。それからしばらくして、みんなが死んでしまい、彼1人がなぜだか助かったことを知って、人々はこう言うでしょう。どうしてこうなることが分かっていたのに、お前は何もしなかったんだ、何かできることがあっただろう、お前は<バカ>か。「敵はみな 私の名前を知っている」、そして、私を蔑む。
もうひとつ、
外に出たけれど、みんなも無事だった、というエンディングもあり得ます。
つまり、<ガス>は存在しなかったパターンです。これは一番のハッピーエンドと言っても差し支えないでしょう。しかし、それにしてもやはり、みんなや外の人々が彼に好奇の目を向けることは想像に難くありません。全くありもしないことを取り立てて騒ぎ立てたキチガイがいる、あいつは<バカ>だ。「家族はよそよそしく/敵はみな 私の名前を知っている」、私は<バカ>だ。
いずれにしても、
<ガス>にいち速く勘付いた人物は、その存在が本当であれ、嘘であれ、みんなから<バカ>にされるのです。
『Gas Panic!』が問いかけること
この戯画は<ガス>を<問題>に置き換えれば現実の話に姿を変えます。
つまり、<問題>にいち速く勘付いた人物は、その存在が本当であれ、嘘であれ、みんなから<バカ>にされる。
『Gas Panic!』が問いかけていることは、仮に<問題>にいち速く気づいた人物が自分だった時、あなたはどの<バカ>になることを選ぶか、ということです。
ポイントは、<問題>が現れれば、彼はその<賢さ>を証明できる代わりにみんなは危険に晒される、他方で、<問題>が現れなければ、みんなは危険を回避できる代わりに彼はその<賢さ>を失う、しかし、<問題>を防ぐ段になって、<問題>を証明するためには<賢さ>が求められる、けれども、<問題>が発生する段になって、初めて<賢さ>は証明される、という歪な構図です。これが『Gas Panic!』です。
みんなが助かる場合、本当に<賢さ>を兼ね備えていてもあなたは<バカ>になります。みんなが助からない場合、<賢さ>は証明できたとしても<バカ>になります。そして、<問題>が初めから存在しない場合、つまり、自分は単なる<バカ>であるというリスクは終始つきまといます。
最終的に必ず<バカ>になると言っても、
結果的に現れる<バカ>は明確に色彩が異なります。
最初に<問題>に気づいて、それをみんなに伝えている段では、単に<変なことを言う奴>程度でしょう。しかし、みんなに動いてもらって<問題>の発生を防げた段では、<自己中心的で周囲に迷惑をかける奴>となるでしょう。そんなことは諦めて早々に見切りをつけ外に出た段では、<みんなを見殺しにしたヒトデナシ>となるでしょう。そして、そもそも<問題>は存在しなかった場合、<勘違い野郎>になるでしょう。主人公は常に<勘違い野郎>でありうる可能性を付帯しています。
さて、『Gas Panic!』は問いかけます。
<問題は、それが顕在化した時には、どの手立てももう手遅れだ>、
そして、
最後にはどうしても<バカ>になるのだとすれば、
あなたはどの<バカ>になることを選ぶだろうか。
大切な人のいる部屋の窓をあなたは叩くでしょうか。
補論
『Gas Panic!』にまつわるこの論考が暗に前提としているのは、主人公以外の登場人物たちの<賢さ>にはそこまで差がない、ということです。イメージとしては、小学校や中学校の学級クラスが近いと思います。そのため、『Gas Panic!』を防ぎたいのであれば、このような前提を回避する仕組みや働きかけがあれば良いと思います。学級クラスの例で言えば、先生やチューターを立てる、です。
また、戯画に関しては、重要ではないと判断した通りと詳細を省いております。
歌詞
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