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Novelber2021/02:屋上

 今回の『異界』は、酷く狭い場所だといえた。
 実際には、ここからずっと遠くまで広がっているのは間違いない。ただ、Xに翼はなく、意識体が元の肉体のイメージを保持している以上、『異界』での行動も肉体の制約に縛られる。
 つまるところ、この『異界』でXが探索できる範囲は、最初に降り立った、入口も出口も無い建物の屋上が全てだった。
 ぐるりと屋上を歩いてみせたあと、落下防止のために張り巡らされた、半ば朽ちつつあるフェンスに手をかけたXは、つい、と空を見上げる。
 空は『こちら側』と変わらぬ色で、青く、青く、どこまでも広がっていて、中空に輝く太陽の光がさんさんと降り注いでいる。
 普段、独房の小さな窓に切り取られた空しか見ていないはずのXに、この晴れ晴れとした空はどのような感慨をもたらしているのだろう。Xの視覚と聴覚しか共有していない私には、Xの内心までを見通すことはできない。
「気持ちのいい陽気ですね」
 誰にともなく。もしくはこれを見ている私に向けたものだろうか、Xがぽつりと言葉を落とす。そして、Xの視線が空からフェンスの向こう側へと下ろされる。
 フェンスの向こう側に広がっていたのは、直方体を思わせる高層ビルが立ち並ぶ町並みだった。しかし、それらは崩れ、あるいは折れ曲がり、足元に広がる青々とした水面に没していた。
 そして、人工的なモノトーンの建造物を、爆発的に広がる緑の植物が覆い隠そうとしている。ビルの形をかろうじて残している建物もあれば、もはや巨大な樹のようになっているものもあった。
 見渡す限り人の気配はなく、水没しつつあるビル群の存在だけが、かつてそこに人間が生きていたということを我々に伝えていた。
 一体、この『異界』の人類はどこに消えてしまったのか。これだけの情報では何もわかりやしない。Xの『潜航』だけで『異界』の全てがわかるとは思っていないが、それでも頭の中に疑問符が浮かぶ。
 ただ、Xは目の前の風景を、単純に「そういうもの」であると受け止めていたのかもしれない。Xの立っている屋上はその廃墟の中でもひときわ高い建物であるらしく、朽ちて飲み込まれ行く世界を眼下に見下ろして、こう呟くのだ。
「きれい、ですね」
 その静謐な滅びが。Xの目にはそう、映ったに違いなかった。
 私はXの目を借りて、静かに終わり行く『異界』を観測する。
 Xはそれ以上何を言うでもなく、フェンスに手をかけた姿勢のままで、水面から伸びる建造物を見つめていた。

あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。