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Novelber/13:あの病院

「あの病院を見ると、思い出しますね。
 数年前、大きな病気を患って、あの病院に入院していたことがあるんです。
 その時、病院の中庭で、すごく綺麗な人に出会ったんです。その人も患者さんだと思うのですが……こんな言い方、おかしいかもしれませんけど、どこか人間離れしていて、まるで絵本の中から出てきたような。そう、妖精のような人だと思いました。そのくらい、ただ綺麗なだけではなく、不思議な雰囲気の人だったのです。
 その人は、きっと病院暮らしに退屈していたのでしょう、同じく退屈していた私に色々な話をしてくれました。中でも印象に残っているのは、霧の海の悪魔の話でした。
 何でも、霧の海には一人の悪魔がいて、犠牲者を捜し歩いているのだとその人は言ったのです。その話しぶりからして、今考えてみると、その人も船乗りだったのかもしれません。船乗り、というイメージは全くなかったのですが。
 悪魔は何をするのかといえば、どこからともなく船乗りに囁きかけるのだといいます。それも、その船乗りの大切な人の声で。もしくは、かつて失ってしまった人の声であることすらあるのだと、その人が言っていたことはよく覚えています。
 そして、そんな悪魔の声に応えてしまうと……、霧の海の底、濃霧面の遥か下に引きずりこまれて、二度と戻ってはこられないのだとその人は言いました。
 話は恐ろしいのに、語るその人はどこか懐かしそうで、どこか憧れるようで。むしろ……、さっき、妖精のようだと言いましたね。私には、その人が妖精か、もしくは、まさしくお話の中の悪魔そのもののように見えたのです。悪魔とは、恐ろしくも美しいものである、とどこかで読んだことがありましたから。
 けれど、その人のことは決して恐ろしいとは思いませんでした。その人は、同時に、とても寂しそうな横顔をしていたのです。そのお話にどのような思いを抱えているのか、私が聞くことはできませんでした。その頃には、今度は愉快なお話に移ってしまっていましたから。
 その人は、今でもあの病院にいるのでしょうか。それとも、私の知らない場所で元気にしているのでしょうか。それとも。それを私が知ることは無いと思いますが、……もう一度、出会えたならと。あの日のお話をもう一度聞いてみたいと、そう思ってしまうのです」
 
(夫人、とある病院を眺めて曰く)

あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。