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無名夜行 - 三十夜話/26:対価

 ころり、と何かが転がってくる。
 Xの視界が足元に向けられる。足にぶつかったのは、オレンジ色に色づいた真ん丸い果実。それが、ひとつ、ふたつ、みっつ。
 転がってくる方向に視線を向ければ、一人の女性が地面に落ちた紙袋から、こぼれたものを慌てて拾い集めようとしているところだった。どうやら、この果実もそこから落ちたものであるらしい。Xは足元に手を伸ばして果実を拾い集めると、女性の元に歩み寄る。
「こちらも、あなたのものでしょうか?」
 Xが声をかければ、女性ははっと顔を上げて、そしてXの差し出したものを見て笑顔になった。
「ありがとうございます、助かりました」
 そう言って果実を受け取るけれど、まだほとんどのものは地面に落ちたままだ。
「手伝いますよ」
 身を屈めて、Xは落ちたものを集めて紙袋に収めていく。女性もまた、視界の隅で手を動かしてはいたものの、Xの手際のよさに呆気にとられていたのか、どこかぽかんとした表情でXを見ていたのが印象的だった。
 ――Xは、こういう時に迷わず動くのだな、と改めて思わずにはいられない。
 誰かが困った様子を見せていると、放っておけないというべきか。普通ならば純粋に美徳と捉えるべきなのだろうが、同じ手で人を殺してきたXのその態度についてどう捉えればよいのか、私は未だにわからないままでいる。
 そうして、女性の落し物は全て拾い上げられて、紙袋の中に詰め込まれる。
「これで、全てでしょうか」
「はい! ありがとうございます」
 女性はXに頭を下げてから、荷物でいっぱいになった紙袋を持ち上げた。女性の細腕にはどうにも重そうだ、と思ったのはXも同様だったのだろう、ごく当たり前の調子で言った。
「重そうですけど、持ちましょうか」
「ふふ、そこまでさせるわけにはいかないですよ。大丈夫です、すぐそこまで、なので」
 そう言われれば無理に押し通そうとするXでもなく。「そうですか」と言って、いたって穏やかに付け加える。
「お気をつけて」
「はい。……もし、よろしければこちら、どうぞ」
 女性は紙袋から果実を一つ取り出して、Xに手渡す。Xは反射的に果実を受け取ってしまってから、女性の方に目を向ける。
「いただいてしまって、よい、のですか」
「手伝っていただいたお礼です。大したものではないですが」
 いえ、と。Xは少しばかり躊躇ってみせてから、両手で果実を持ち直す。
「ありがとう、ございます」
「お礼を言うのはこちらですよ。本当に、ありがとうございました」
 もう一度頭を下げた女性は、そのままXが向かおうとしていた先とは別の方角へと歩き去っていく。Xはその姿が道の角を曲がって見えなくなるまで見送って、それから自分もまた歩き出す。
 手伝いの対価としてもらった果実は、Xの無骨な手の中で、日の光を受けてつやつやと輝いている。
 ……Xは、一体何を考えて、その果実を見つめているのだろう。
 私はXが何を考えているのかを知ることはない。知る必要もない。ただ――そういえば、Xは人に手を貸すことを厭わないが、その一方で自らの行動に対して対価を求めたことがなかったのだ、ということを今更ながらに思うのだ。
 それは、『潜航』についても同様だ。いくつの『異界』を巡っても、いくら理不尽な出来事に直面しても、この果実一つの見返りすら、ないというのに。Xは、迷うことなく『異界』に向けて一歩を踏み出してみせるのだ。
 Xの手が果実を持ち上げて。しゃり、という咀嚼の音がスピーカーから響いた。

あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。