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無名夜行 - 三十夜話/13:うろこ雲

 ――『異界』の市場は人でごった返していた。
 人といってもそれは『こちら側』でいう「人間」だけではなく、我々から見たら「異形」としか言えないような存在も当たり前のように道を闊歩しているし、店もまた、何を扱っているのかさっぱりわからないようなものがほとんどであった。私はXの目を通して看板や店先の商品を見て、それが一体何なのかを推測することくらいしかできない。
 Xはきょろきょろと辺りを見渡しながら、人の波に流されていた。あちこちから聞こえてくる呼び込みの声も、『こちら側』の言葉に聞こえるものもあれば、耳慣れない響きにしか聞こえないものもあって、それらが混ざり合ってとにかく賑やかだ。
 しばらくは人の流れに押されるばかりだったXだったが、ふ、と足を止める。Xの視界を反映するディスプレイには小さな屋台が映し出されている。屋台には大小さまざまな木箱が積み上げられ、麦わら帽子を目深に被った少年が店番をしていた。
 看板にはご丁寧にいくつもの言語が書かれており、その中には漢字らしい文字も見て取れた。Xの声が、その文字を読み上げる。
「『からばこ』……?」
「『そらばこ』だよ」
 店番の少年に訂正された。
 そう、看板には確かに『空箱』と書かれていて、Xがそう読んだのも無理はないことだった。店に並んでいるのが何の変哲もない木箱に見えるだけに、尚更。
「そらばこ。何の店、なんですか」
「だから『空箱』を売ってるんだよ。おじさん、もしかして『空箱』を見るのは初めて?」
 はい、と頷くXに向けて、少年は積み上がっている箱のうちの一つを差し出す。少年の両手に収まるか収まらないか、くらいのサイズの箱だが、その上面には穴がひとつ開いていた。
「うちの『空箱』は出来がいいって評判なんだ。試しに覗いてみてよ」
 Xは言われるがままに箱を受け取る。覗く、というのはこの上面の穴から、ということだろう。Xの視線が箱と少年の間を彷徨う。少年はどこか期待を篭めた目でXを見上げていた。
 そして、Xの視界が箱の上面を映し出し、それがゆっくりと近づいてくる。実際にはXが箱に顔を近づけたのだろう。そして、小さく開いた穴を覗き込み――。
 途端、目の前に広がったのは、一面の空だった。
 うろこ状の雲が青い空を覆っており、空のどこかに輝く太陽の光を含んで白々と浮かび上がって見える。それだけではない、上空を吹く風にあおられるように、徐々にではあるが確かに雲の形や位置が変わっていくのだ。それは、現実に頭上を見上げるのと何も変わらない質感をもって、Xの目の前に存在しているのであった。
「それは秋の『空箱』。うろこ雲を削らないように空を加工するの、なかなか苦労したんだよ」
 少年の声が聞こえてきて、Xは箱から顔を離す。私がXの反応を知ることはできないが、Xの表情を見た少年は満足げな顔をしていたから、きっと驚きの顔を浮かべていたに違いない。
 Xは手の中の箱を見下ろして、不思議そうな声で問いかける。
「空を加工する……、というのは、どういうことですか?」
「言葉通りだよ。空を切り取って、箱の中に詰め込むのさ。もちろん、ただ詰め込むだけじゃ雲も光も崩れて見れたものじゃなくなっちゃうからね、箱の中に綺麗に収めるのも空箱職人の技術ってわけ」
 にっと少年は真っ白な歯を見せて笑う。少年の言葉は私にはどうにも理解できなかったし、Xも同様だっただろう。だが、少年はその程度の説明で十分だとでも思っているのか、Xに向かって言うのだ。
「一つ買ってく? 今ならお安くしておくよ」
「いえ、その、今は持ち合わせがなくて」
「『ない』ってことはないでしょ。例えば、その左目となら、とびきりの箱と交換できるよ」
 Xの左目は光を映さなくなって長い、らしいが、少年にとってXの目は何らかの価値を見出せるものであるらしい。Xはその言葉には「む」と小さく唸って、それから首を横に振った。
「この目は、大切なものなので。それに、買っても持ち帰れそうにありませんからね」
 それもそうだ。
 今『異界』に立っているXの体は意識だけを抽出して形を与えたものだ。『こちら側』の肉体に引き戻す際に『異界』のものを『こちら側』に持ち込むようなことはできない。――『まだ』できない、と言い換えた方がいいのかもしれないが。
 少年は露骨に残念そうな顔を浮かべたが、すぐに笑顔になって言った。
「なら、また今度来たときには買ってってくれよな」
 いい空、用意して待ってるから。
 少年の言葉に、Xは片手を挙げることで応えに代えた。
 ひとつひとつが空を篭めた、不思議な箱たちに背を向けて。Xは再び人波に身を投じていく。

あざらしの餌がすこしだけ豪華になります。