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【短編小説】男役をめざす高3の夏

書いたのは3年くらい前(?)
参考:めざせ舞台女優!「かげきしょうじょ」の魅力|青野晶 (note.com)


青野晶「やがて銀橋に続く」

 細く長い道を行く。星野薫は白線を超えて車道に出ないよう意地になっていた。バス停へと続く海沿いの道は、車道の幅を広く取りすぎたせいで歩道が狭くなっている。白むほどの炎天はまぶしく、鋭く痛い光が降り注いでいた。
「なにあれ?」
 少女たちの嘲笑が聞こえて、星野薫は日傘の柄をギリと強くつかんだ。つんと鼻先を上げるのに、胸の奥に差し込む鋭い痛み。この格好がおかしなことくらいは理解している。星野薫はなんでもない表情を維持することに集中して先を急いだ。バス停が見えてくる。その屋根の下に入ってようやく、日傘をたたみアームカバーを外した。海の照り返しが眩しすぎるから、色の濃いサングラスはそのままにする。いったい全国の女子高校生のうち何人がここまで日焼け対策をしているのだろう。星野薫にも自分が普通でないことくらいよくわかっていた。
 バス停には四人掛けのベンチがあって、奥には一人、同じ年頃らしい男子がいる。彼は星野薫を見上げたけれど、すぐに海の方へと視線を戻した。さっきの少女たちが、からっとした笑い声をあげて歩いていく。惜しみなく陽光を浴びる白いセーラー服が眩しかった。星野薫は同じ制服を着たその少女たちを見送り、少年から距離を置いてベンチに腰を下ろす。誰もいなくなった道路とその先に続く海を、目を細めて見つめた。

 暑さに耐えかね、辻はバス停のベンチで背骨を丸く溶かしていた。スニーカーのつま先を眺める。さっきまで野球をしていたから、黒い布地は砂で白く汚れていた。忌々しいほどの蝉しぐれが耳を覆う。顔を上げれば眼前には、白金に輝く海が糖蜜のようにうねり続けていた。じっとバスを待つ。汗を拭うことはとっくに諦めていた。湿度の高い潮風を感じながら地面に視線を落とす。その時、背の高い人影がバス停の前で立ち止まった。日傘をすぼめているらしい。誰だろう、と辻は思った。
 顔を上げると、白いセーラー服姿の少女がいた。ただし、セーラー服なのは上半身だけだ。少女は制服のスカートを腕に抱えて体育用の長袖ジャージを履いていた。頭にはサンバイザーがついているし、目元には濃い黒のサングラス。顔の下半分は大きすぎるマスクで覆われ、首にはスカーフが巻かれている。少女の右手には先ほどまで使われていたらしい日傘とアームカバーが握られていた。
 車道の方から笑い声があがった。西高の制服の女子が二人、アイスを片手に歩いていく。手足をさらけ出した少女たちは炎天の支配する海を背景にしていた。辻は再び、バス停に来た少女を盗み見る。少女のセーラー服の左胸にも西高の校章が刺繍されていた。道路側に向いた辻の左耳は、車道を行く少女たちの声をとらえる。
「あの子、女優目指してるらしいよ」
 屋根付き木造のバス停に入ってきた女優志望らしき少女は、辻から距離をとり、四人がけベンチの隅に座った。執拗な日焼け防止策のためにどんな顔立ちをしているかはわからない。それでも少女が自分のクラスにいるタイプの女子ではないことが、辻にははっきりとわかった。サングラスで目の形がわからなくても、マスクで輪郭がわからなくても、少女からは何か特別な香気を感じられる。なるほど確かに女優を目指すわけだ、と辻は納得した。
 突然、思い出したように少女は鞄から大きな本を一冊取り出し、はらはらめくり始めた。辻が観察を続けているにも関わらず、少女は辻に一瞥もくれない。何をしているのだろう、と少女の手元に目線を落とした時、辻はぎょっとした。
 少女の手にした本はあまりにも劣化していた。表紙は色褪せ毛羽立っているし、四隅は擦れて白く丸まり、全てのページにしなびた付箋が貼られている。ふと、ページをめくる少女の指が止まった。サングラスの向こうにある瞳が、ひときわ鋭く光るのを感じる。辻は上体を伸ばすストレッチのフリをして後方にのけぞり、少女の見つめるページを覗き込んだ。「紅華音楽学校 校歌」。太字で書かれていたタイトルの下に「副題:春の妖精」と記されている。少女はそのページを開いたまま本を膝に置くと、五線譜をピアノの鍵盤に見立て、バスが来るまで両指を踊らせ続けた。

 病院のエントランスに入ると、星野薫はバスを降りた。今日からしばらく金曜日はここへ来ることになる。星野薫は消毒液のにおいに守護された廊下をきりりとした足取りで歩き進んだ。ある病室の前で立ち止まる。ネームプレートを確認すると、星野薫はドアを引いた。
「ごきげんよう。おばあちゃま」
 先週受けた面接のレッスンのことを思い出し、強く意識する。「人と話す時は常に試験本番の面接だと思うこと」。笑顔を忘れない。声を大きく。はっきりと。
「あら、薫ちゃん」
 祖母は上体を起こしてベッドの上にいた。祖母の薄い肩を囲むように、老女たちが三人寄り集まっている。彼女らの小さな瞳は星野薫の姿を認めるなり、みるみるうちに若返った。
「ねえ、マリちゃん、もしかして?」
「そう。孫よ」
 祖母が唇の端に手を添えて老女たちに囁く。その可憐な仕草。しなやかな指の流れ。所作は老いを知らない。紅華歌劇団、春組、娘役トップ。かつて「春の妖精」と称された白鳳マリこそ、星野薫の祖母だ。
 白鳳マリのファンたちは高い声をあげてすぐ両手で口をおさえ、星野薫と祖母とを交互に見つめた。
「じゃあ、もしかして、お孫さんも?」
「ええ? でも制服が違うわ」
「あら。お孫さんは娘役にならないの?」
 ファンからの質問に、祖母は言葉を詰まらせる。星野薫は一瞬、奥歯を噛みしめると腹の底に空気を取り込み、はっきりと答えた。「受験します。紅華音楽学校」
 そうだ。今年こそ。星野薫は他でもない自分自身に宣誓していた。星野薫の澄み切った発声に、祖母のファンたちはこの日一番の歓声をあげた。しきりにうなずき、目まぐるしく星野薫とその祖母を交互に見る。
「きっと大丈夫よ。マリちゃんの才能を受け継いでいるんだもの」
「お母さんだって娘役をされたでしょう。三代目、楽しみだわ」「絶対にファンクラブ作るからね!」
 歓迎されるほど、星野薫はどう答えたらいいのかわからなくなった。何から言えばいいのだろう。私は……と考えて、自分の中でさえ考えがまとまらなくなる。祖母はちらりと星野薫に視線を投げたけれど、何も言わなかった。祖母はただ、百年に一度しか咲かない蘭のように微笑んでいる。
 星野薫は、先週のレッスンで講師に言われた言葉を胸の内で反芻した。
「三次試験まで行ったってことは、バレエもジャズダンスも申し分ないってことよ。あとは歌唱だけ。歌唱さえできればいいんだから。おばあさまもお母さまも上手だったでしょう。だから星野さんも大丈夫。もっと自信持って!」
 ところが、その歌唱の試験に星野薫は三年連続で落ちている。紅華の門は四度までしか開かない。今年が最後のチャンスなのだ。
 星野薫は思う。普通を捨てれば特別になれると思ってたんだ、と。普通の女子高校生が普通に楽しむような日常を捨てて生きれば、バレエにジャズダンスに歌唱に打ち込めば、当たり前に紅華乙女になれると思っていた。自分にはその才能があると信じていた。祖母も母も娘役の紅華乙女であったし、特に祖母は元娘役トップスターだった。その血を引いているのだから、星野薫は当たり前に、紅華乙女になれるものだと信じていた。ところが、星野薫は紅華音楽学校の歌唱試験で三度の不合格を言い渡されている。もう後がない。星野薫にはレッスンがあるから受験勉強や就職活動をする暇がなかった。今年落ちれば夢は断たれ、星野薫は進学もできなければ就職もできない、ただの十九歳になる。それでも星野薫が見据える道は、細く、長く、ただひとつしかない。
「絶対に素晴らしい娘役になれるわ。頑張ってね」
 祖母のファンたちから放たれた温度のないの無色透明の矢が星野薫の胸を射貫く。無邪気に研ぎ澄まされた痛みで、呼吸ができなくなりそうだった。星野薫は瞑目し、意識して両足に均等に体重をかける。腹の筋肉を引き締めた。「人と話す時は常に、紅華音楽学校入学試験の面接だと思うこと」。星野薫は顔をあげてすっきりと笑顔を作り、祖母のファンたちに向けた。
「頑張ります!」
 精一杯に演じきった。清く正しく美しい、星野薫という役を。
 紅華音楽学校の面接試験は三十秒しか持ち時間がない。その短い時間で自分の魅力をアピールできなければ落ちる。二千五百人が入る大劇場で注目を集める女優になるには、「光るものがある」ことが前提だ。
 星野薫の紅華乙女然とした態度に満足したらしく、白鳳マリのファンは拍手に沸いた。気の早い祝福に病室の空気は華やいだけれど、白鳳マリだけは孫の演技の未熟さを見抜いていたし、その気配に、星野薫が気付かないはずもなかった。

 今週の金曜日もまた、少女はバス停に現れた。いつものように日傘、サンバイザー、サングラス、マスク、スカーフ、アームカバー、長袖ジャージで真夏の太陽に徹底的防御姿勢をとっている。少女はバス停のベンチに座り、あの楽譜を胸にぎゅっと抱きしめていた。今日は膝でピアノを弾かないのだろうか。それなら、話しかけても迷惑にならないかもしれない。辻は意を決した。
「あの」
 少女に呼びかける。少女は初めてサングラス越しに辻を見た。
 大丈夫。辻は自身の緊張をなだめながら、背中に汗が伝っていくのを感じていた。
 何度も練習した台詞がある。練習通りに。辻は轟く鼓動を押さえつけ、頭の中の台本を音に変えていった。
「あの、君のおばあさんとお母さんが女優って聞いたんだ。君の高校の人から」
 昨日、バス停の前を通りかかった西高のあの女子二人を呼びとめた。「このバス停にたまに来るあの子、何者なの?」と。少女たちは辻に不信の目を向け、「なんか女優目指してるらしいですよ。紅華乙女? とかなんとか」とそっけなく答えて去っていった。バスを待ちながら、辻はスマホで「紅華乙女」を検索した。
 「紅華乙女」とは、紅華歌劇団に所属する女優のことであるらしい。神戸にある紅華大劇場で歌・ダンス・芝居をこなす容姿端麗な女性たちのことをそう呼ぶ。検索画面をスクロールしていると、辻はある記事で指を止めた。「伝説の娘役トップ スター白鳳マリ」。見出しの下には『ロミオとジュリエット』でジュリエットを演じた白鳳マリの画像が載っていた。目がその画像をとらえた瞬間、辻の脳は勝手に、白鳳マリのシルエットをバス停の少女に結び付けた。あの子がサングラスを取れば、マスクを取れば、ジュリエットのドレスを着れば、と、辻は少女をジュリエットに描き直していく。
「紅華歌劇音楽学校の校歌『春の妖精』とはまさにこの人のこと」。記事にはファンによってつづられたらしい評価が続いていた。どうやら白鳳マリには娘がいて、その娘も紅華乙女だったらしい。芸名は白鳳美雪。「白鳳美雪」を画像検索にかけた時、辻はほとんど確信した。あの少女は白鳳マリの孫であり、白鳳美雪の娘なのだと。白鳳美雪は白鳳マリよりもさらに、バス停の少女に近い形をしていた。
 本当のことをしゃべれば「そこまで調べたのか」と気持ち悪がられるかもしれない。でも「同じ高校の人から聞いた」なら、不自然ではないだろう。辻には返事をしてもらえる自信があったけれど、少女は露骨に嫌そうなため息をついただけだった。

 距離をおいて座る他高の少年は頭に汗の珠を結んでいた。星野薫は少年を一瞥し、抱きしめていた楽譜を鞄にしまう。
 またおばあちゃまのファン。またママのファン。
 星野薫はうんざりしていた。こういうことは態度に出してはいけないとわかっている。真の紅華乙女たるもの、胸中の不愉快を外に漏らすわけにはいかない。でももう限界だった。おばあちゃまが何。ママが何。私はなんでもない、ただの私なのに。サングラスで目線がごまかされるのをいいことに星野薫は少年を睨みつけた。
 星野薫の態度に焦ったのか、少年は芯のある声を震わせて言葉を繋ぎ始めた。
「あの、俺のばあちゃんが、紅華歌劇団のファンで。それで、いろいろ聞いてほしいって言われて」
「いろいろって?」
「……名前、とか」
 星野薫は我慢ならず、再び深くため息をついた。「人と話す時は常に、紅華音楽学校入学試験の面接だと思うこと」。幼い頃からしつけられた教訓さえ吹き飛んでしまう。星野薫の名前の価値が「白鳳マリ」や「白鳳美雪」を超えることはない。本当はわかりきってたはずの現実を、形あるものにされていく気がする。
 少年は広い肩をすぼめた。
「ごめん」
 そう言うしかない、という表情をする。「話かけなければよかった」と思われているのがわかって、星野薫は前髪をぐしゃぐしゃに掻き、両腕を組んで口をとがらせた。
「あのー」
 バス停の前で誰かが立ち止まったらしい。なによ、と言いたくなって星野薫はキッと顔を上げた。目の前に立っていたのは同じ西高のセーラー服を着た少女二人だった。あ、と声になりそうだった音を飲み込む。名前はわからないけれど顔に見覚えはあった。彼女たちはいつも学校で星野薫を笑っている。「あの子、女優目指してるらしいけどずっと試験落ちてるね」と。いったい何の用、と吐き捨てたくなったけれど、少女たちは星野薫を一瞥するとすぐに視線をそらし、まるで何も見えなかったみたいな顔をした。話しかけられたのはどうやら星野薫ではなく、隣の少年であるらしい。
「この前お話して気付いたんですけど、もしかして野球選手の、辻海斗さんの弟さんですか?」
 少女のうちの一人が一歩前に出る。陽光に焼かれた指手はかすかに震えながら、小花柄の便箋を握っていた。もう一人の少女は後ろで控えたまま、「がんばれ」とささやく。星野薫はとっさに少年の横顔を見た。頬には擦りむいた傷が生々しく残っている。
「そうですけど……」
 少年の声は星野薫の胸を容赦なく突き刺す。痛みに耐えきれず、星野薫はすぐに目をそらした。バス停の前には図々しくも少女たちが立ちはだかり続ける。しかし彼女らが見ているのは隣の少年だけだった。
「私、辻海斗選手のファンなんです! 辛い時、プレーに励まされて。これ、手紙です。辻選手に渡してください! モデルのセイラちゃんと婚約しちゃったけど、私、」
 手紙を持った少女が勢いよく頭を下げ両手で便箋を差し出した時、星野薫は「やめなさいよ!」と叫びだしそうになった。
 車道を通り抜ける潮風が少女のスカートを揺らす。手紙を差し出した少女は、まるで夏休みの女子高校生代表の姿をして日に照らされていた。その眩しさに、星野薫は思わず言葉をのどに詰めてしまう。なぜだかそれがもどかしくて、泣きそうになった。
「そういうの止められてるんで」
 星野薫が何かを言う前に、少年はきっぱり断った。差し出された手紙を突き返す。少年の手のひらに拒絶された便箋は折れて皺が寄った。紙の悲鳴。それは蝉しぐれに紛れることなく、確かな輪郭を持ってバス停を支配した。少女は顔を上げ、何が起こったかまるでわからない、という様子で立ち尽くす。少年は苦い物を奥歯につめこんだままみたいな横顔でいた。
「学校にも、兄にも止められてるんです。受け取れません」
 少女はようやく拒絶を理解し、涙を拭いながらバス停を去っていった。友達らしいもう一人の少女が背中をさすり歩いて行く。その様子を、星野薫は呆然と眺めていた。隣の少年は星野薫に負けないほど深く嘆息する。
「泣くなよ」
 苛立ちのこもった声色は切実だった。少年は両膝の上でかたく拳を握っている。視界の端に映った、白く擦り切れたスニーカーのつま先が今更のように痛々しかった。
「星野薫」
 はっきりとした発音、抑揚、速度、透明な音のつながり。模擬面接のレッスンで習った通りに発声できて、星野薫は少しだけ満足した。
 少年は顔を上げ、星野薫を見る。「今なんて言った?」そう言いたげな丸い瞳を見て、星野薫はほんの少しだけ口角を緩めた。
「私の名前。星野薫。あなたは?」

 時の滑り落ちた肌からはハリこそ失われてしまったものの、祖母の肌色は不健康には見えず、青く透ける血管さえ美しい。杖を使わずに歩行できるのも、紅華歌劇団春組娘役トップスターとして積んだ修練の賜物なのだろう。星野薫は病院に見舞うたび、祖母の小さな特徴から恐ろしいほどの努力を垣間見てしまう。
 祖母と母が紅華乙女であったために、星野薫は物心ついた頃すでにバレエ教室に通っていた。小学六年生からは紅華音楽学校合格を目指すコースに切り替えて、高三の現在に至るまで週七回レッスンに通っている。月曜・水曜・日曜はバレエのレッスンを二時間、その後に歌唱のレッスンを一時間受ける。火曜・木曜・土曜はバレエがジャズダンスになる。金曜だけは面接のレッスン一時間とその後は自主練。バレエやジャズダンスは、模範の舞踊を一度見て、その場で全く同じように踊らなければならない。歌唱のレッスンでは渡された楽譜を三十秒で読み、音もリズムも外さずに歌いきる。それとは別に課題曲である紅華音楽学校の校歌を歌わなければならなかった。上手く歌うことは前提だ。楽譜を読み、曲そのものを理解しどう表現するかが重要になってくる。声量であるとか、声の深さであるとか、間や余韻、とにかく見せ場を作らなければならない。そうでもしなければ倍率四十倍を超えるこの試験を通過できるわけがなかった。
 レッスンを受けられるのは一日一時間から三時間。一日のうちでは、レッスンを受けない時間の方が長い。レッスンの時に感じた理想と現実のギャップはレッスン外の時間で埋める。そういうわけで、金曜だけは自主練の時間をとれるスケジュールにしていた。星野薫はこの時間を削り、祖母を見舞うことにしている。
「最近、よく来てくれるのね」
 ベッドの祖母が星野薫を見る。星野薫は祖母の、言外の意味を瞬時に探り当てた。
「大丈夫。レッスンには変わらず週六通ってるから。私、確かに成長は遅いけど、」
「薫ちゃん」
 春の妖精は微笑む。病室の大きな窓には白く薄いカーテンが引かれていた。優しい西日はカーテンの白を淡く染め上げる。冷房の風がそれをかすかに波打たせた。祖母の白髪は淡い夕陽色のカーテンに映えて、星野薫は、白鳳マリが「春の妖精」と謳われた理由を知った気がした。
「無理しなくていいのよ。おばあちゃま、ずっと心配だったの。おばあちゃまとママが紅華乙女だったから、薫ちゃんも紅華乙女にならなくちゃって、そう思っているんじゃないかって。紅華音楽学校に入学するのがどれほど大変か、おばあちゃまもママもようく知っているわ。
 小さい頃から習ってきたバレエも、小学生から始めたジャズダンスやお歌も、他の生徒さんと比べて『私なんか全然だめだ』って何度も落ち込むことになるでしょう。つらいわよね。でもずっとそうしているわけにいかないじゃない? できない自分に食らいついて理想と現実のギャップを自分で埋めていかなければなれない。まるで終わりが見えないのよね。そうでしょう。
 でもね、紅華乙女になることが人生の全てじゃないの。薫ちゃんにはそれを教えることができなかったんじゃないかって、おばあちゃまもママも心配なのよ。私たちはもっと、薫ちゃんの話を聞いてあげなくちゃいけなかったんじゃないかって。本当に薫ちゃんが、紅華乙女になることを望んでいたかどうか。小さなころからバレエを習ったり、減量をしたりっていうのは、やっぱり、薫ちゃんにはよくなかったんじゃないかなって、おばあちゃま時々思ってしまうの。
 ママも、薫ちゃんに可能性をあげたかっただけなのよ。絶対に紅華乙女になってほしいと願っているわけではないの。ほら、急に紅華乙女になりたいと思ったって、付け焼刃の技術では紅華音楽学校には絶対合格できないでしょう。だから、もし薫ちゃんが『目指したい』と思った時に困らないように、小さなころからダンス教室にも通わせたのよね。おばあちゃまがママにそうしたように。おばあちゃまたちはただ、娘にも同じチャンスを作っただけにすぎないのよ。
 それは紅華乙女になれたら素晴らしいし、おばあちゃまも誇らしく思うわ。でも、それがただひとつの道ではないのよ。紅華が人生じゃない。勉強して大学に行くでもいいし、家のことをするでもいいし、好きな人と一緒になってもいい。薫ちゃんには薫ちゃんの人生を選ぶ権利がある。どうか、無理、しないでね」
 祖母の優しさが星野薫には痛すぎた。どこまで見透かしているのだろう、と思う。そしてどこまで……。この頃の星野薫は、自分自身をどこまで理解しているかということさえ、わからなくなることがある。
「……うん」
 星野薫は顎先で浅くうなずく。窓辺には祖母のファンたちが置いて行ったらしい青バラの束が置かれていた。星野薫はその包みを解き、人工的に色付けされたバラを一本ずつ花瓶にさしていく。指先に鋭い痛みが走り、痛、と手をひいた。声だけは耐え、星野薫は人差し指を見る。棘に裂かれた傷口からは、血の珠がみるみる膨れ上がった。

  星野薫が金曜日以外にもバス停に現れるようになったのは、それからだった。「紅華乙女になることが人生の全てじゃない」。祖母の言葉にいくらか気持ちは軽くなっていた。祖母は祖母。母は母。私は私。生まれた時から当然だったことを、星野薫はようやく理解できた気がした。
「私のおばあちゃまは紅華歌劇団春組の娘役トップだったの。芸名は白鳳マリ。ママも春組の娘役だった」
「知ってる。実は調べた」
 星野薫と辻は隣り合ってベンチに座りバスを待つ。バスは二十分に一本しかないはずなのに、二人で待つようになってからは三分に一本は走っているような気がした。バスを待つ時間と、バスに乗ってから星野薫が病院前で降りるまでの時間。その時間が、二人にとって特別な色を持つようになっていた。
「すごいよな。おばあさん、お母さん、星野さん、三代で女優なんて」
「それを言うなら、あなただって兄弟でプロ野球選手でしょ」
 星野薫がそう言うと、辻は眉根をひそめて困ったように笑う。整えられた眉が独特にゆがむのを見る時、星野薫の胸には同じ種類の痛みがしみた。
「俺は野球選手にはなれないよ。兄貴とは小さい頃からずっと野球してきたけどさ、下手なんだ、俺だけ」
 辻の胸の奥にたまった諦念が星野薫の心へと直接流れ込んでくるような気がする。星野薫の胸の底には同質の何かが沈殿していた。この澱の冷たさを理解してくれるのは辻しかいない、と星野薫は思う。そしてそう思っているのは、星野薫ひとりではない。言葉にしなくてもわかる「それ」が、二人を硬くつないでいた。
 星野薫は辻の横顔から目をそらし、視線を落とす。それと入れ違いに、辻は星野薫の横顔を見た。
「おばあちゃまもママも紅華乙女の娘役だったんだけどね、私がなりたいのは、娘役じゃないの」
「え、うそ。まさか」
「うん。男役。私、男役になりたいの。小学生の頃に神戸の紅華大劇場で『ロミオとジュリエット』を観た時からね。
 ジュリエットはもう、お姫様は本当に存在したんだって思うくらい、綺麗だった。見た目だけじゃないの。話し方も、所作も、お歌も、バレエも。おばあちゃまもママもあんなふうに舞台に立っていたんてすごく誇らしいと思った。けどね。ロミオを演じた架月玲さんを見た時、私は……」
「カヅキレイ?」
「うん。架月玲さんは入団してから六年半でトップスターになったの。紅華史上最速の男役トップ。架月玲さんにはトップ時代に八千人のファンがいたんだ。二年で退団しちゃったけど」
「たったの二年? 大舞台に立てるのは二年だけってこと?」
「初主演で引退する人もいる。長くても五年前後かな」
「え、ちょっと待って。星野さん、物心ついてころにはバレエ習ってたって言ってたよね。小学生からはジャズダンスと歌も。学校以外の時間全部それに捧げてるって。もし紅華音楽学校に入れても、紅華歌劇団に入っても、大劇場の舞台に立てるのは三年だけ?」
「その儚い夢を見るために私は人生をかけるのよ。人生を賭して踊って踊って踊って、舞って舞って舞って、散るの。私は銀橋で散っていきたい」
 記憶が、あの日の紅華大劇場に星野薫を引きずりこんでいく。「月に誓おう!」
 架月玲がそう叫び両腕を広げた瞬間、星野薫はたしかに、架月玲と目が合った。憧れを注ぐ星野薫の幼い心が架月玲には見えたのだろうか。架月玲はかすかに微笑むと、星野薫の視線をその瞳で預かり、頭上のスポットライトへと流した。架月玲の瞳は光に満ちて潤い、その煌めきは、星野薫のためだけにある気がした。「なれるよ。君も、紅華乙女に」。架月玲の無音の励ましは、星野薫の胸に落ちて鋭い輝きを放った。あの日から、星野薫は。
「銀橋って?」
 辻の声に、星野薫は現実へと引き戻された。バスは曲がり角に差し掛かり、大きく右に揺れる。そろそろ病院が近い。眠りから覚めたような心地であくびをして、星野薫は答えた。
「紅華の舞台は客席に向かって半円を描いて迫り出してるの。半円の外周には人ひとりが通れる細い道が残されていて、下はくりぬかれてオーケストラピットになってる。そのオーケストラピットの外側の道。トップスターだけが渡ることを許されたその道のことを、銀橋っていうの」
 辻は手元のスマホで画像検索をかけていた。「紅華大劇場 銀橋」。ヒットした一万件を超える画像の中には、半円形にせり出した舞台の外側、人ひとり通るのがやっとの狭い道に、巨大な円形の羽を背負って歩く男役の姿があった。鼻の下と顎に付け髭をしている。
「もしかして、星野さんも髭つけるの?」
「つけるわよ。何、馬鹿にして」
「馬鹿になんかしてないよ。髭をつけても、星野さんは可愛いんだろうな、って、思っただけ」
 予想外の言葉に星野薫は発声方法を忘れた。とっさに目をそらす。窓の外にはもう、病院の白い外壁が迫り始めていた。
「あのさ、」
 野球で鍛えられた辻の、腹の底から響く声が聞こえた。星野薫の腹筋にも無意識に力が入る。星野薫は目だけを動かして辻を見た。
「花火大会に行かない? 来週」

 渡された譜面に目を流していく。音符をとらえて頭の中で音にして、耳の奥で想像上の音を鳴らす。正確に歌うだけでは試験を突破できない。星野薫は考える。作曲者は何をイメージしてこの楽譜を書いたのだろう。たった八小節しかない曲にも、何か物語があるはずだ。
 レッスン室でグランドピアノに向き合った星野薫は、講師の伴奏に従い三曲の初見歌唱をこなした。三度も落ちた歌唱試験に、星野薫が本気にならないわけがない。今日の模擬試験で最高の得点を出す。そのために星野薫はいつでも楽譜を持ち歩き、バスの待ち時間でさえ頭の中でメロディを構築し再生し続けてきた。……辻と出会うまでは。
 レッスン室の壁は鏡張りで、十人の受講生たちがそろって同じレオタードを着ていた。全員一列に並び、指名を受けた一人が一歩ピアノ側に歩み出る。それは紅華音楽学校の三次試験「歌唱」の会場とほとんど変わらない空間だった。
 模擬試験の日は個人レッスンと違い、本番の試験でライバルとなる九人と同室で歌わなければならない。他の受験者にも譜読みの力を値踏みされ、歌声を聞かれるというのはどうにも慣れないプレッシャーを感じる。それでも星野薫はやりきった。
 歌うとは、身体を楽器にすることみたいだと星野薫は思う。声を音楽にするには、身体をひとつの楽器にしなければならない。鼻から眉間の奥あたりが自ら発する声に細かく振動する時。吸い込んだ空気で下腹の膨れる時。星野薫は、この身体を確かに音楽のために捧げていると実感できる。音程。アクセント。ブレスの位置。音の終わりは特に大きく響かせること。舌先は前歯の付け根に触れるように。口の中の空間をできるだけ大きくする。クラシックの歌い方は口を横には開かない。縦に。縦を意識して響かせて。この身体で生きて、この身体で演奏するのだと、そんな感覚をつかんでいく。考えることは多い。それでも全部を集めて自分のものにした。自分自身を奏できった。音はひとつも外していない。呼吸も腹でコントロールできた。今日こそ、今日こそ上手くいった。星野薫は達成感に踊る胸を右手で押さえて礼をした。紅華乙女になる。必ず。
 十人が歌い終わると講師は厳しい指導を始めた。
「得意じゃないのはわかるけれど、音痴は練習で直せるわ。もちろん人の五十倍、百倍は練習しないといけないけれど」
「自信がなくても大きな声ではっきり歌うのよ。それが大前提です。小さな声で自信なさげに歌う紅華乙女などいません」
「いいのよ、今は悔しくて泣いてもいいの。できない自分にくらいつきなさい」
 最後に「星野薫さん」と講師に呼ばれ、星野薫は「はいッ」と男役らしい低音で答えた。星野薫は両脚に均等に体重をかけてすっと背筋を伸ばす。次の入試で絶対に受かる。志だけはいつも、手の届かないところにあった。
「表現が乏しいのよね、星野さんは」
 講師は腕を組んでしばらく考えた。
「誰よりも正確に歌えてる。でも、ただそれだけ。人を魅了する歌い方ではないのよね。……ああ、でも、気にしないで。大丈夫よ」
 星野薫の深刻な表情に気付いたのだろうか。講師は星野薫に歩み寄り、肩を軽くぽんぽん叩いた。
「おばあさまもお母さまも上手だったんだから」
 星野薫はうつむき下唇を噛んだ。講師が白鳳マリと白鳳美雪の舞台を観ていないはずがない。祖母に比べて、母に比べて、星野薫の歌唱力は未熟すぎる。それが三年間、紅華音楽学校の入試に落ち続けている最大の要因だ。「白鳳マリは娘役トップだったから」。「白鳳美雪だって娘役になれたから」。「だから星野さんも大丈夫」。無意味だった言葉は、無意味を通り越して凶器になりつつある。星野薫は指の腹に貼られた絆創膏に爪を立てた。棘の傷はまだ疼く。この一点に刻まれた鈍く深い痛みは時間をかけて体中に浸透していくようだった。
「さ、みなさん。もう一度課題曲ね。白き~雪の~ように~空に~から。紅華音楽学校の桜をしっかりイメージして歌いましょう」
 講師はグランドピアノに戻り、紅華音楽学校の校歌を弾き始めた。伴奏に合わせて流れ出す周囲の歌声が霞んで遠のいていく。星野薫はただ愕然としていた。
 精いっぱいだったのだ。作曲家が何を思ってどんな気持ちでこの曲を書いて、この曲の背景にはどんな物語があるとか、そんなことは考え尽くした。肌身離さず持ち歩いている楽譜に残したメモは、目を閉じたって思い出せる。それなのに「表現力」などという曖昧なものを星野薫はつかみとれない。祖母には、母には当然にあったもの。それが星野薫にはない。もしも祖母も母も紅華乙女ではなかったとしたら、星野薫はとっくに紅華音楽学校に合格できていたのではないか。星野薫はやりきれなくて仕方がない。「第三の白鳳マリになれるか」なんて視点で評価などされたくはなかった。星野薫は星野薫だ。白鳳マリも白鳳美雪も関係ない。けれど、星野薫を他の誰でもない「星野薫」として評価してくれる人間は、この世界に一人しかいなかった。
「こんにちは」
 突然、レッスン室のドアが開いた。聞き覚えのある声に星野薫は肩を震わせる。顔をあげると、一人の少女がレッスン室に入ってきた。レオタードにバレエシューズを履いている。
「あら、いらっしゃい。みんな、こちら紅華音楽学校の本科生、山岸さんです。二年前、この教室に通っていて紅華音楽学校に合格しました。今日はみなさんの応援に来てくれましたよ」
 星野薫を除く九人の受講生は高い叫び声をあげた。星野薫だけが目線を下にそらし、劣化しすぎた楽譜を背に隠す。その動作が目立ってしまったのだろうか。山岸は、すぐに星野薫に気付いた。
「えっ、薫ちゃん?」
 山岸はまっすぐに星野薫に歩み寄ってくる。名前を呼ばれてしまえば無視するわけにはいかない。星野薫は仕方なく声の主を見る。山岸の首はかすかに日に焼けていた。レオタードからのぞく二の腕には柔らかな脂肪が乗っている。
「薫ちゃん! まだ紅華目指してくれてたんだね! よかった!」
 山岸は星野薫の両手をとって喜んた。星野薫は必死に笑顔を作る。だめだ。演じろ。星野薫は自身を厳しく押さえつけ、意識して眼差しに羨望の色をのせる。本当なら叫び出したかった。どうして? と。
 食べないダイエットはしてはいけないといわれて一年かけて計画的に減量してきた。しかし星野薫はもともと太っている方ではない。鍛えられたしなやかな体躯を維持している。男役はダンスで娘役をリフトしなければならないから筋力だって必要だ。筋肉を鍛えつつ体重を落とさなければならない。この三年、いや、架月玲を知ったあの日からずっと、星野薫は男役の身体を作るために努力してきた。絶対に日焼けなどしないように、誰に笑われても完璧に対策してきた。それなのにどうして。
「私が紅華に受かったの、薫ちゃんにいろいろ教えてもらえたおかげだよ。だから今度はなんでも聞いてね。私も力になりたいから」
 星野薫が落ちた一昨年の試験で、山岸は紅華音楽学校に受かった。悪気なく、山岸は星野薫を応援してくれる。その好意さえ、星野薫は上手く受け取ることができない。「ありがとう」と笑ってみせても、言葉に、表情に心が乗らない。久しぶりに友に会えた喜び、応援してくれることへの感謝。憧れの紅華乙女に出会えた喜び。演じようとするのに、それは全く叶わなかった。
 損をしている、と星野薫は思う。祖母の白鳳マリは紅華音楽学校で予科一年間、本科一年間、研究科六年間のレッスンを経て春組の娘役トップになった。けれど星野薫は、紅華歌劇音楽学校に入学すらしていない。紅華乙女として八年の修練を経た祖母を今の星野薫と比べるのは、あまりにも酷ではないか。苦手な歌唱はもとより、得意なバレエやジャズダンスだって、現役時代の白鳳マリに敵うはずがない。白鳳美雪にしたってそうだ。紅華音楽学校に入学すらできていない星野薫と比べるにはあまりにも理不尽ではないか。
 星野薫はあらゆる「普通」を捨ててきた。放課後にカラオケにだって行ってみたかった。日焼け止めなんか塗らずに広い道を歩いてみたかった。人気のケーキだって食べに行ってみたかった。たくさんの「したかった」に意識が潜っていく。その先に、星野薫はあのバス停を見ていた。
 祖母の病院に行くために使うバス停。海に面した広い車道。狭すぎる歩道。その先にある、木の屋根のバス停。長いベンチ。そこに行けば辻がいる。辻は剃った頭にまで汗の珠を置いて、白シャツの第二ボタンまで開け、うちわでせわしなく風を起こして海を見ている。白銀に煌めき続ける、憎らしいほどに澄んだ海を。良く焼けた肌。砂に汚れたスニーカー。星野薫に気付くと辻は顔をあげ「よう」と、手を挙げて笑う。

 夜は紫外線を気にしなくていい。星野薫は十八歳にして初めて浴衣を着た。物心ついた頃からずっと、この時間はレッスンを受けているか、自主練に励んでいたから。それ以外の過ごし方があるということが、星野薫にはとても新鮮に思えた。
 辻は星野薫の姿を認めると一瞬息を詰めて笑う。
「なんか、普通だ」
「普通ってなによ」
「いや、いつも日焼け気にしてすごい恰好してるから……。俺らバス停以外で会うの、何気に初めて」
 慣れない下駄の鼻緒が痛い。星野薫が小石を踏んでよろめくと、辻はとっさに星野薫の手をとった。星野薫が体勢を立て直しても辻はその手を離そうとしない。
「行こう」
 辻は淡く笑ってすぐに目をそらした。星野薫はかすかに首肯する。辻の手のひらに指を這わせ、その感触を確かめた。辻の皮膚はとても硬い。まめができて、潰れて、できて、潰れてを繰り返し、硬化したようだった。バットを強く握りすぎたのか。グローブに球を受けすぎたのか。走って転びすぎたのか。いくつもの痛みを越え、いびつに凸凹した辻の手のひらは、星野薫をどこまでも支えてくれる気がした。
 夜闇に浮かぶリンゴ飴、金魚。石畳を蹴る下駄の音。汗を握る手。星野薫は生まれて初めて「普通」を噛みしめた気になった。
 普通の高校生活にはレッスンがない。バレエやジャズダンスの自主練もないし、日焼けや減量のことを考えなくたっていい。星野薫は思う。おばあちゃまが言ったことは本当だった、と。紅華だけがこの世界の全てではない。星野薫には他の人生だってちゃんと用意されていた。
 うなじに結ばれていた汗が冷たい流星のように背筋をなぞっていく。このまま全部を清く洗い流してもらえる気がした。せめて今日だけは。今日だけは夢を忘れ去りたい。星野薫は辻の硬くいびつな手を、強く握った。
 すべての高校生が当たり前に経験していた日常に溶け込んでいけることが、星野薫にはひどく幸福に思えた。
「星野さん」
 花火が打ち上がる。星野薫は高台のベンチに座り、辻の肩に頭を預けていた。何も答えない。星野薫はただ、この時間が永久に続けばいいと願った。楽譜の奥を読むための目。歌うための口。音を正確に聞き分けるための耳。舞うための肢体。演技のための感情。紅華の舞台に立つために作り上げてきた全てを、今、辻のためのものにしていく。それが星野薫に、かすかに灯った新しい願いだった。
「星野さん」
 辻はもう一度、星野薫に呼びかける。星野薫は黙って言葉の続きを待った。
「俺は……星野さんに救われてたんだ。星野さんと俺はちょっと似ていると思う。家族の影に隠れている、という意味で。星野さんが、おばあちゃんやお母さんと比べられるように、俺も兄貴に比べられてきた。でも、俺は辻海斗じゃない。確かに、兄貴は特別な才能を持って生まれてきた。でも俺はそうじゃない。同じ血を分けたってそんな、才能のある人間が簡単に生まれるわけじゃない。星野さんだったら、わかってくれるよね。
 星野さんもそれと同じで、おばあさんと同じじゃなくていい。お母さんと同じじゃなくていいんだ。
 俺はいつしか星野さんに自分を重ねてた。星野さんだけは俺の苦しみをわかってくれるような気がする。星野さんに出会うまで、俺はずっと辻海斗の弟だった。星野さんは俺を辻海斗の弟じゃなく、俺として見てくれたよね。星野さん。俺は、星野さんのことが」 星野薫の白い頬を銀に光る涙が散る。花火の赤が、黄色が、青が、七色の光が、涙に吸い込まれて顎を滑り落ちた。「星野さん?」と辻は呼びかけて言葉を切った。それ以上何も言えない。次々に上がっては散っていく花火の煙のにおいが潮風にのってきた。見えない煙が二人の沈黙を包んでいく。星野薫は両手の甲で涙を拭い、勢いよく立ち上がった。
「どうしてみんなそんなこと言うの! 私がなりたいの。私が、紅華乙女になりたいの! これは私が決めたことなのよ。おばあちゃまでもママでもない。私が決めたことなのよ。絶対に紅華乙女になる。絶対にトップスターになって銀橋を渡る。あんたなんかと一緒にしないで!」
 夜を裂くように、星野薫は声を張り上げた。辻を振り切り走り出す。星野薫は自分を恥じた。一瞬でも「普通」に手を伸ばしてしまった自分を。これまでの努力を切り崩し、犠牲にしてきた青春を拾いかき集めてしまいそうになったことを。紅華乙女になりたい。なる。本当にそう思うのなら、この犠牲は必ず払われなければならない。
 星野薫は波打ち際を走っていく。砂に足を取られて上手く前に進めない。浜を噛む波は隙あらば星野薫の足首を取ろうとする。それでも星野薫は砂を深く蹴り上げ前に進んだ。

白き雪のように 空に
舞い落ちるただそれは温かく
まるで春の妖精
ひらりひらりと
ああ紅華の桜の花よ
大地に降り立ち
土へと戻りて
また新たな命となり
君に会いに行こう
今はただ踊り舞い散らん

 三度不合格をもらった、三次試験の課題曲。星野薫の頭には紅華音楽学校の校歌の譜面があふれるように流れてゆく。
 もしも新たな命として生まれ変わることがあるのなら、辻のもとに行こう。行きたい。星野薫は強く願う。しかし今は。今はただ、踊り、舞い、散っていきたい。
 耳の奥には聞こえないはずのピアノ伴奏が軽やかに響く。涙に震える喉と腹は、星野薫の胸に焼き付く夢に熱せられ、歌を奏で続けた。

 星野薫は八月の成績「四十人中 十一位」の文字を、目を細めて見つめた。紅華乙女は現在約三百人。紅華乙女になるために音楽学校で学ぶ予科一年目の現時点で成績十一位。まったく、と星野薫は前髪をぐしゃぐしゃに掻く。とても銀橋の夢を語れる立場ではない。肩を落としそうになって、ため息を飲み込んだ。
 才能なんてものとは、完全に無縁だったのかもしれない。祖母と母が紅華乙女だったから、星野薫はコネで入学できたのだと噂する生徒もいる。しかしそれが事実ではないということは、四度目の試験でやっと紅華乙女と認められた星野薫自身が一番よく理解していた。
「うわ〜! 星野さん聞いてくださいよ!」
 ロッカーで渡辺さらさは男役には不似合いな高い声をあげて星野薫に手招きした。渡辺さらさの右手はスマホが握られている。
 身長百七十八センチの渡辺さらさは同じ男役を目指す好敵手だ。……いや、好敵手、と見ているのは星野薫だけかもしれない。渡辺さらさというこの天然少女は「歌舞伎役者になりたかったんですぅ。まさか女の子はなれないなんて~……」と涙を飲み紅華音楽学校に入学してきた。学科の成績は四十人中四十位の低空飛行、というより地を這い続けている渡辺さらさだが、星野薫は、渡辺さらさがなぜ紅華音楽学校に合格できたかを知っている。
 それは渡辺さらさに「ロミオとジュリエット」のDVDを貸した翌日にわかった。渡辺さらさは星野薫にDVDを返すと「フフ」と鼻を鳴らし、「月に誓おう!」と両腕を広げてみせた。渡辺さらさの目線の角度は、瞳に入った光の煌めきは、あの日の架月玲と寸分違わなかった。星野薫は一瞬、架月玲が渡辺さらさに憑依したかとさえ思った。それほど正確に、渡辺さらさは架月玲をコピーしていた。「さらさは本気で歌舞伎になりたかったんです! もし男の子に産まれていれば、さらさが十六代目歌鴎さんを継ぐはずだったんですよ~……」と唇をとがらせる渡辺さらさは、一度芝居を見れば台詞はもちろん、全ての役者の目線の角度から指先の動かし方、声の抑揚、表情筋の使い方まで完璧に写し取ることができる。奇妙な才能と舞台映えする体格を持つ渡辺さらさに、星野薫は努力以外で勝つ術を持たない。紅華音楽学校、100期生同期。渡辺さらさ。彼女は紅華音楽学校に一度目の受験、つまり最年少十五歳で合格を果たしている。
 渡辺さらさは当然だという顔をして豪語する。「さらさはトップさんになるんです!」と。目尻にピース付きで。
 ああきっと、渡辺さらさは本当に銀橋にのぼり詰める。何がなんでも渡りに行ってしまう人なのだ。そうとわかるほど星野薫は負けたくなかった。負けたくない。渡辺さらさにだけは。ところが渡辺さらさの気の抜けた笑顔と間伸びした話し方にはどうにも対抗心を削ぎ落とされてしまう。
「星野さ〜ん。星野さ〜ん。見てくださいよ〜。これですぅ」
「何よ、うるさいわね」
「この海沿いの町って、星野さんのご実家がある町ですよね?」
 スマホの四角い画面の奥に懐かしい街並みがある。広い車道。歩いていく、セーラー服姿の女子高校生たち。あの制服は、星野薫が去年までの三年間着ていたものだ。
「そうだけど……それが?」
 渡辺さらさが画像をスワイプすると、あのバス停が出てきた。木の屋根。四人がけのベンチ。しかしそこには誰も座っていない。去年の今頃、確かにあのベンチの端に星野薫は座った。そして距離をとり、もう片端には……。星野薫の表情の変化に気付くことなく、渡辺さらさは話し続ける。
「今SNSで話題なんですよ〜」
 渡辺さらさの指が画像をもう一度スワイプする。アップになるバス停。貼り紙がある。鉛筆書きで「この夏だけ貼らせてください」の文字。文章には続きがあった。星野薫は震えそうな親指と人差し指で画像を拡大する。解像度の落ちた粒子の先に、黒い文字がぼんやりと浮かび上がった。
「いつかの君へ。俺はまだ、野球をしています。ありがとう」
 胸にある決意が血を燃やすのを感じて、星野薫は呼吸を止めた。渡辺さらさは何に気付くはずもなく「なんだかすてきですよねぇ」とほれぼれする。
 紅華音楽学校の在学期間は残すところ二年を切っている。卒業したら、紅華歌劇団に入団する。大阪にある新人公演の舞台に立てるのは初めの六年間。それ以降は神戸の大劇場に立つ。名前のある役をもらえるのはそこから二年間。その二年のうちに銀橋を渡れるのは、一握りのスターだけだ。険しい道のりになることはわかっている。自分は渡辺さらさのような天才ではない。けれどその天才を超えるほどに、努力してみせる。星野薫は深く誓った。必ず紅華大劇場に立とう。鋭く光るキジの羽を、足元まで流れ落ちるナイアガラの羽毛を背負ってみせる。絶対に、トップスターとして。
「負けない。私も」
 星野薫は小さく呟いた。
「え、なんですか?」
「なんでもない」
「星野さ~ん。さらさもこれ見にいきたいですぅ。次の帰省、ついてってもいいですか?」
「だめにきまってるでしょ。ていうか、帰るつもりない」
 銀橋を渡る日が来るまでは。星野薫は胸中で付け加える。
 その日が来たら、最前列のチケットを一枚、辻のためにとっておこう。星野薫はやがて今にする未来を脳裏に描きだしていく。またあの海沿いの道をとびきり慎重に歩こう。車道を広く取りすぎたあの道を。車道と歩道との境界の白線を超えないよう意地になって。細く長いあの歩道はやがて銀橋に続く。星野薫はそう信じている。
 十五年後、紅華大劇場での舞台初日をひかえたら、星野薫はあのバス停に行くだろう。「いつかの君へ」と貼り紙を残すために。辻は必ず見てくれる。その自信が、確かに星野薫の手の内にある。あのいびつな手の感触と共に。
 紙にはきっと書きつける。「星野薫は銀橋にたどり着いた」、と。

〈了〉

エンディングこちら↓

TVアニメ「かげきしょうじょ!!」ノンテロップED | 星野 薫「薔薇と私」 (youtube.com)

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