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「嘘つきたちの幸福」第1幕

★あらすじ(全4幕)★
アビー王子と革命家ファイザは互いの顔も知らずに憎み合っている。
そんなある日、偶然に出会った2人は恋に落ちてしまった!
ファイザは幸福になるためにアビー王子を殺そうといている。
アビー王子も幸福を取り戻すためにファイザを殺そうとしていた。
「しかし愛してしまった……」
ファイザ殺害をためらったアビー王子は、ある嘘をつく。
この嘘がきっかけで二人の恋は複雑な五角関係に発展!
アビー王子はファイザを殺せるのか?それとも?

実在のバレエダンサーが演じる様子を想像して小説化します。


青野晶「噓つきたちの幸福」

■第1幕 第1場

 アビー王子が革命家の女を殺そうと誓ったのは、昨日今日の話ではない。ただそれを今日と決めたのは、シャワル城で革命家の女をとらえたという報がもたらされたためだった。この好機を逃すわけにはいかない。アビー王子の優しく穏やかな心は、王都スファンに放たれた炎のごとく、急激に熱せられたのである。

必ず殺してやる。今夜。私の手で殺してやる!

アビー王子は胸に沸き立つ黒炎に、自身を焼き焦がす思いで誓った。

ところが決意の直後、「革命家の女が逃走した」との急報がもたらされ、アビー王子は奥歯をきつく噛みしめることになった。

しかし、とアビー王子は思い直す。まだ遠くへは行けまい。

アビー王子は部屋にひとり籠ると、宝石の縫い付けられた赤いマントを肩から下ろした。シルクのシャツも脱ぎ捨て、代わりに糸のほつれたシャツを着る。それは、亡命の旅路で砂漠を共に超えたシャツだった。バース王国産の服は手元にこれしかない。亡命のために砂漠越えをしたから、服は砂に汚れ、糸がほつれて穴が開いていた。しかしそれは、バース王国の誇る最高級の布地であることに変わりない。革命家の女を殺す。そう考えた時、アビー王子はこの服を纏うことに決めた。王政を覆した革命勢力は、王家の末裔、アビー王子が始末する。この劇的な反革命を達成するのに、亡命の日々を乗り越えたこのボロ着こそ、最適の衣装である気がした。

破れた更紗のスカーフを頭から巻き、首を覆って目だけを晒すと、アビー王子はシャワル城に併設された神殿へ向かった。白壁のタイルに描かれる青の細密画は、西方からもたらされた夜光石の生まれ変わりである。神殿の窓から降り注ぐ光は、文字を編んで描かれた幾何学模様の青を一層鮮やかに浮かび上がらせていた。ドーム型の天井から釣り下がるシャンデリア型も、よく見れば文字を寄せ集めて形成されている。祈りの文字が降る青い神殿。それは、かつてアビー王子の過ごしたスファン王宮にもあった。

アビー王子は神殿の奥へと歩みを運び、壁に面した祈祷台の前で立ち止まった。ひざまずく。祈祷台の白い石板の冷たさが、薄い布を通り抜け、アビー王子の脛にまで伝わってきた。アビー王子は腰を丸く折り曲げ、石板に額を押し付ける。

神よ、私はこの苦しみを、同じ方法で革命家に返すのです。

聖なる復讐。アビー王子は繰り返し胸の内で唱えながら、腰に帯びた短剣の柄を握り締めた。アビー王子は立ち上がり、心を静謐に浸したまま、神殿の出口を目指す。今、神殿の扉を開け放ち、アビー王子は反革命への第一歩を踏み出すのだった。

「アビー王子、アビー王子。どこにおられるのです!」

召使いのイーシャの声が聞こえて、アビー王子は慌てて隠れ場所を探した。

ドーム型の神殿は、閃塔と呼ばれる鉛筆のようにとがった塔を四棟有している。神殿の出入り口のすぐ近くにあった閃塔の影に、アビー王子は身を隠した。

「いらっしゃらないのかしら?」

 イーシャの独り言は、深い夜空に浮かぶ氷の星々に吸い込まれていった。ふう、とイーシャは腰に両手を当てると、困ったように腕を組み、再び叫んだ。

「アビー王子。おひとりでおられては危険です! 革命家の女は刃物を持っています。アビー王子!」

 イーシャはアビー王子を探して神殿の扉を開けたが、神殿の中ではタイルに嵌め込まれたベリア文字が、青く輝くばかりだった。


■第1幕 第2場

革命軍がバース王国の首都スファンを占拠したのは一ヶ月前のことである。つまり、アビー王子がベリア王国領内にあるシャワル城に亡命したのも、一ヶ月前というわけだ。

ベリア王家が身を置くのは内地の都コルーであり、バース・ベリア国境にあるシャワル城に王家の者が足を運ぶことはまずない。その辺境の地に突然、ベリア王家のカルロ王子(と見違えるように似ているアビー王子)が現れたのだから、シャワル城の兵たちは度肝を抜かれた。しかし彼らがカルロ王子と勘違いしたこの人物こそ、隣国バースの王位継承者、アビー王子だった。

アビー王子とカルロ王子の人違いについては、イーシャの丁寧な解説のおかげで全員が納得するに至った。

要約すれば、バースとベリアはもともとひとつの王国であったという。何百年も昔、バースとベリアをおさめていた国王に、双子の王子が誕生した。兄に国のすべてを継がせれば弟が不満を抱くに違いない。そう考えた国王は、兄弟がいさかいを起こさないよう、首都パルミルにあった王宮を中心に、王国を二分割した。兄には東のバース王国を、弟には西のベリア王国を。大国を二つに分けて継承させたのである。つまり、その双子の兄の子孫がアビー王子あり、双子の弟の子孫がカルロ王子であるというわけだ。

「バース王国とベリア王国が平和条約を締結しているのは、双子の国だからです。どうかお助けを」

 イーシャがぺこりと深く頭を下げると、シャワル城の城主も思わず笑顔になった。

ベリア辺境を守る兵たちがアビー王子を歓迎したのはいうまでもない。


■第1幕 第3場

アビー王子はシャワル城の見晴台を目指して歩き出した。今、アビー王子が纏うのは粗末なマントである。シャワル城に来て以来、アビー王子は城主から借りた衣装に宝石を縫い付けたものを着ていた。砂漠を抜けてくる間にアビー王子が来ていた衣服は汚れたり破れてしまったためだ。カルロ王子そっくりの隣国の王子にボロ着をいつまでもまとわせているわけにはいかない。シャワル城の主は宝石をふんだんに縫い付けた服をアビー王子に献上した。

それでもアビー王子は故郷バース王国の絹で織られたボロ着を、今日この日まで捨てられなかった。いつか必ず、バースに戻る。その時までバース王家の証拠品は、なにひとつ手離したくなかった。

アビー王子は穴の開いたマントをぎゅっと握り締める。亡命の旅路で、服に縫い付けられていた宝石はすべて砂漠のどこかに吸い込まれた。装飾品の削ぎ落とされた粗末な服は動きやすく、今はありがたい。金の刺繍は擦り切れて目立たなくなっているから夜に紛れることができるし、革命家の女を殺すにはやはりもってこいの衣装だと、アビー王子は満足気に息をつく。

とにかくシャワル城を見渡せる高いところへと、アビー王子は急いだ。

革命家の女を探し出して殺す。バース王家に伝わるこの宝剣で。

アビー王子がマントの下に手を伸ばし、腰に帯びた剣の柄を握り締めた。その時だった。擦り切れた靴底が、城塞のタイルの上を滑ったのは。

まずい、と思った時すでに、アビー王子は城壁に左手だけをかけて、身体を城外へ投げ出していた。頭に巻いていたスカーフははらりとほどけて首にかかった。城壁をつかむ左手に冷や汗がにじんでくるのを感じながら、アビー王子は後悔し始めた。

なんだって靴までこんなボロを選んだのだろう……?

金や銀の刺繍がほどこされたつま先の尖った靴は硬く、走るのには不便だと思って履き替えたのだ。もちろん、共に砂漠を超えたバース産のボロ靴に。元は何色だったかさえ思い出せないほど汚れてしまった靴だが、それでもシャワル城に来て以来履いている豪奢な靴よりは動きやすくていいと思ったのだ。ところが砂漠越えの間に靴底は砂に研磨され、滑りやすくなっていたらしい。アビー王子はそのことをすっかり忘れていた。

「誰か、誰かいないか!」

左手が城壁をぬるぬる滑り、もうだめだ、とアビー王子が叫んだ時、アビー王子の右手を誰かがつかんだ。「おひとりでおられては危険です」。アビー王子はイーシャの言葉を思い出す。助かった、と思った。上にいる誰かが、すさまじい力でアビー王子を引っぱり上げる。アビー王子は左手を城壁にかけ、足元で窪みを探し、ようやく這い上がることができた。水色に澄み渡る星夜に、二人分の呼吸がこだまする。誰だろう。力が強いからイーシャではない。

けれどきっと、イーシャが僕の不在を心配して誰かを警護に寄越したに違いない。

アビー王子がようやく呼吸を整え、礼を言おうとした時、隣で息を切らしている命の恩人はいきなりアビー王子を怒鳴りつけた。

「馬鹿やってるんじゃないよまったく!」

 アビー王子は驚いて口をきけなかった。こんな下品な口のききかたをする従者は見たことがない。シャワル城主に仕えるベリア兵だろうか? と思ったが、この声はどうやら女だ。

「あんた新人の泥棒? こんなところで滑るなんて信じられないような間抜けね!」

 そう言って立ち上がったのは、長い黒髪を背で一本に束ねた女だった。眉は気丈さを象徴するように太く、アーモンドアイを縁どる睫毛まで濃い。鼻の筋の左右に影が落ちるほど掘りの深い顔立ちをしているが、鼻梁は意外なほど繊細な印象を放っていた。

 アビー王子はぽかんと女を見上げる。泥棒に間違われたことなど、二十年の人生において一度だってない。あまりにも心外だった。

「私は泥棒ではない!」

「じゃあなんの用があってこんなところうろついてるのよ?」

 女は顔をしかめて腕を組むと、アビー王子のつま先から頭の先までを眺めやった。

アビー王子ははっと気付いて自分の恰好を見た。首元にずり下がるスカーフには砂塵と垢のにおいが沁みついている。マントは穴だらけで裾はほつれていた。靴は滑り止めが磨滅するほど履き潰されている。

「これは……その……」

 アビー王子は何も言えなかった。ただ、ひとつわかったことがある。この女の言葉にはベリアなまりがない。衣服はアビー王子と同じくらいみすぼらしい。まるで砂漠越えをしてきたみたいだ。アビー王子の家来にこんな女はもちろんいないし、どうやらベリア兵でもないらしい。そして先ほど、シャワル城には革命家の女が現れた。それが意味するところは、つまり……。

「お前、なぜ私を助けた?」

「はあ? あんたここで死にたかったの?」

「いや、そういうわけではなく……」

 革命家の女の強気な物言いにアビー王子は気おされてしまった。革命家の女は鼻を鳴らし、得意げに胸を張る。

「あたしは貧乏人の味方だからね。こんな砂まみれのみすぼらしい城に盗みに入らなくちゃならない人間の命なら助けるよ。万が一あんたが王子さまなら、蹴り落としてやったところだけどね」

 くくく、と冗談めかして革命家の女は笑った。

 どうやら泥棒の振りをしておいた方がいいらしい……。

アビー王子はそう考えて笑ってみたけれど、ははは、と発してみた声は思っていたより乾いていた。

「ねえ、ところで泥棒仲間さん。ちょっと助けてくれない? あたしまずい状況にあるのよ」

「まずい状況」

 アビー王子は何も事情を知らないふりをして復唱する。

そうだ、革命家の女は今追われている。シャワル城のベリア兵が一度はとらえたのにも関わらず逃がしてしまったから、城主が指揮をとり、総出で革命家の女を探しているのだ。まもなく誰かがここにも来るだろう。

アビー王子は固唾を飲んだ。

バース王国を転覆させた革命軍は、バース王家最後の生き残りであるアビー王子を血眼になって探している。もちろん、アビー王子を捕らえて断頭台に送るつもりだ。アビー王子の家族と親族が、全員そうされたように。

 アビー王子の緊張など露ほども知らず、革命家の女はひょうひょうと喋り続けた。

「つまりね、さっきここの兵に見つかっちゃったわけ。手首を強くとられたものだからまずいと思ってね、『あたしを殺したらバースのムアがこの国に攻め込んでくるからね! あたしはムアの女だよ!』って脅したんだ。そしたら兵が怯えちゃってさ。隙をついて逃げて来たんだ」

 なるほど……それで兵たちはこの女を逃がしてしまったのか……。

アビー王子はため息をついた。

ムアこそアビー王子の宿敵、バース王国を乗っ取った革命の主導者である。

「ムアとは……その、よく知らないのだが、一ヶ月前にバース王国の首都スファンを占拠し、王族を片っ端から処刑したという、あの革命家のことかな?」

「そうよ。よく知ってるじゃない」

「君はその……ムアという人とどんな関係が?」

「うーん。……まあ、未来の妻ってとこね」

「未来の妻!」

アビー王子は歓喜にうち震えた。

神よ! この私にさっそく復讐の機会をお恵みくださった!

アビー王子の眼前には、神殿の天井を覆う青い祈りのカリグラフィーがよみがえってくるようだった。

こんなにも早く祈りは聞き届けられるとは!

 ムアから未来の妻を奪う。自らの手で。

ムアが私の家族を奪ったように、今度は僕がムアの家族を奪う!

アビー王子は復讐心に目が潤むのを感じた。

革命家の女は極限まで目を細めてアビー王子を見ている。眉間には深い皺が寄っていた。アビー王子はどきりとする。できるだけ平静な声を装って聞いた。

「……何か?」

「あんたって奇妙に高貴な話し方をするのね。泥棒のくせに。話してて鳥肌が立つわ」

「……」

 殺そう。

革命家の女は折よく背後を振り返った。チャンスだ。

アビー王子はゆっくりと左手をマントの下に忍ばせた。

短剣の柄を握り締める音が、夜風の起こす衣擦れの音が、さっきよりも大きく聞こえる気がして、アビー王子は手のひらに汗を握った。

「しっ、足音が聞こえる」

女が突然振り向いたので、アビー王子はマントの下で柄から手を離した。

直後、革命家の女はアビー王子の左手を強く握ったかと思うと、全速力で走り出した。

「何を!?」

「つかまったらまずいでしょうが! あんたも泥棒でしょ!?」

 軍靴の音が近付いてくる。城壁を照らす松明は冷たい砂漠の夜風に揺らめいていた。革命家の女はアビー王子の手を強引に引っ張り走る。足音は静かだった。

「こっちだ」

 アビー王子は天啓を感じて、神殿の方へ走り出した。今度はアビー王子が革命家の女の手を握って走る番である。

そうだ、神のもとで殺してやろう。この聖なる復讐の機会は神が恵んでくれたのだ。あの神殿こそ、この女の心臓を捧げるに相応しい!

 アビー王子は革命家の女を導き、閃塔の影に身を潜めた。

「どこに向かうつもり?」

 革命家の女は切れる息を潜めてアビー王子の耳元で尋ねた。

「神殿の中だ」

 アビー王子は周囲に人がいないことを確かめる。松明の炎はシャワル城のあちらこちらで揺れ、軍靴の駆ける音は縦横無尽に響いている。しかし幸い、神殿の近くには誰もいないらしい。

「神殿? どうして?」

「隠し通路がある」

 アビー王子はとっさに嘘をついた。鼓動が速まる。アビー王子は呼吸を止めて緊張と興奮をおさえつけ、静かに神殿のドアを押し開けた。

 革命家の女は神殿に足を踏み入れるとドーム型の神殿の天井を見上げた。天井を覆う青いタイルは艶やかな光に濡れている。タイルの隙間に嵌め込まれた貝殻はオパール製の星に見えた。壁に刻まれた祈りの文字は青い光を放ち、神殿を静かに冷やしている。

「夜なのに明るい。何、これ……」

「夜光石だ」

「夜光石……」

 アビー王子は慎重に神殿の扉を閉め、取っ手に閂を通した。これで神殿にはアビー王子と革命家の女の二人だけだ。

誰にも邪魔はさせない。革命家の女を逃がさない。必ずここで殺す。

アビー王子は覚悟を胸に振り返った。

 革命家の女はまだ神殿の天井に見とれていた。瞳に張った涙の膜には青い宇宙が瞬いている。今からそちらに送られるとも知らずに。

「ねえ、夜光石ってなんなの?」

「砂漠の向こうの海の国からもたらされる宝石だ。暗い場所で輝きを増す」

「素敵ね。こんなに美しいものがこの世界にあったなんて」

アビー王子は革命家の女に手を差し伸べた。

この手で、この女の命を神に捧げよう。

決意は固い。アビー王子の指先は震えた。

その時、アビー王子の隣に立っていた革命家の女は、アビー王子を見上げ、すぐにそらした。

まずい、勘繰られたか。

アビー王子の指先の震えが焦りのあまり大きくなりかけた時、革命家の女はアビー王子の手を握った。革命家の女の指先が、想像以上に柔らかく温かかったことにアビー王子は面食らわないわけにいかなかった。革命家の女の手も震えている。怖がっているのだ、と不意にアビー王子は理解した。

考えてみれば当たり前だった。この女はアビー王子を殺そうとシャワル城に潜入して、一度はベリア兵に捕まったのだ。なんとか拘束を逃れ、シャワル城外へ逃亡しようというところで見知らぬ泥棒を助け、今、その誰とも知れぬ男を頼ってここから脱出しようとしている。そう上手くいくものだろうか。革命家の女が考えていることが想像以上に伝わってきてしまうことに、アビー王子はどう思えばいいのかわからなかった。それにしてもこの豪胆な女が、何かを恐れることがあるということが、アビー王子には特別意外に思われた。

いや、いや、と激しく首を横に振る。何をこんな時に考えているのだろう。

アビー王子は歩調を速めて、革命家の女を祈祷台へと導いた。

「このあたりに隠し通路があるはずだ。手分けして探そう」

 白い大理石でできた祈祷台は薄い石板のような形をしている。祈祷台の面した壁はドーム型に窪んでいた。アビー王子は革命家の女の手を離し、立ったまま壁を検分する振りをしてみせた。革命家の女は「わかったよ」と頷き、祈祷台にひざまずく。壁との接地面を注意深く覗き込んでいるらしかった。

革命家の女があるはずもない隠し通路を探すことに必死であるのを見て、アビー王子は静かにマントの下に左手を滑り込ませた。短刀を鞘から抜く。鞘走りの音が微かに響いたが、革命家の女は気付かなかった。

アビー王子は血が沸き立つのを感じた。この時しかない。今だ!

アビー王子は革命家の女の背後に立ち、両手に握り締めた短剣を頭上に振りかざした。

「ねえ、隠し通路ってもしかしてこれのこと?」

 革命家の女は嬉しそうに叫んでアビー王子を見上げた。

アビー王子は慌てて短剣を背に隠す。革命家の女は光る瞳でアビー王子を見つめながら、祈祷台と神殿の壁の境目を指さした。夜光石の光が漏れている。地下へ続く空間があるらしい。

まさか!

 アビー王子は驚きのあまり言葉も出なかった。

「あんた、やるじゃない。いい逃げ道を知ってるのねえ」

 革命家の女は感心したように呟くと、祈祷台と壁の隙間に白い指を滑り込ませて手前に引いた。白い石板の擦れる音が重厚に響く。三日月型の隙間は徐々に広がり、夜光石の明度の高い光があふれ出した。

革命家の女は祈祷台と壁の隙間に細い体躯を滑り込ませた。アビー王子もそれに続く。革命家の女は祈祷台の石板をずらして封をしようとしたが、重すぎたらしい。石板は動かない。革命家の女だけに任せておくわけにもいかず、アビー王子は両手を添え、作業を手伝った。祈祷台の石板が壁に接する。今、アビー王子と革命家の女を取り巻くのは、夜光石の青い光だけだった。

神殿の地下に、本当にこのような隠し通路があったとは……。

アビー王子は革命家の女よりも落ち着かない様子で、あたりをきょろきょろ見渡した。

地下に続く階段を二人は降りていく。直方体に切り出された上質な夜光石を積んで作った空間は湖底のようだった。

「すごい! こんなの初めてだわ!」

 革命家の女の無邪気な声が地下通路に響く。好奇心に任せてためらいなく前進する革命家の女の後ろを、アビー王子がおずおずとついていった。やがて階段に至る。二人はそれを下っていった。

階段を降りた先にはまた通路が続いていた。道幅は広がり、天井は高くなっている。一面が夜光石であるから、空間は隙間なく青い光に満たされていて、松明を持たなくても歩いて行けた。

今度は扉に突き当たった。鉄細工で豪華に装飾された両開きのドアだ。植物のツルのようにカーブを描き絡み合う鉄細工の取っ手をつかみ、アビー王子は革命家の女とともにそれを力いっぱい引いた。砂埃が舞う。空気の流れが生じて、眼前が開ける。一面の輝かしい青が二人を飲み込んだ。

「なんなのかしら、ここ……」

 扉の先にあったのは天井の高い大広間だった。爬虫類の骨格を思わせる湾曲した柱が天井をドーム型に成形している。壁は一面、夜光石であるらしい。寄木細工の床は夜光石の光に照らされて、静かな水面のように輝いていた。大広間の中央だけは寄木細工ではなく、夜光石の欠片が敷き詰められている。色の深みや透明度の微妙に異なる破片が、王冠とチョウザメの紋章を象っていた。天井もまた夜光石のタイルが貼られていたが、四角く区切られた石と石の隙間には細かく砕かれたガラスタイルがはめ込まれている。彗星でも落ちてきたかのように美しい。

革命家の女は興奮気味にはしゃぐ。

「こんなのって見たことがないわ!」

その声に片耳を貸しながら、アビー王子は茫然としていた。

まるでスファン王宮の大広間にそっくりじゃないか……。

アビー王子は思い出した。いつだったか、他国の姫たちがスファン王宮に来て、舞踏会を開いた時のことを。「踊りの得意なアビー王子と一曲踊ってみたい」と姫たちはアビー王子に誘われるのを待ったが、アビー王子はそんな雰囲気がなんとなく居心地悪くて、結局誰とも踊らなかった。イーシャ以外とは……。

アビー王子は失われたスファン王宮の日々に目を細める。

慣れない舞踏会にすっかり気疲れしてしまったアビー王子は、会の終わりにイーシャと話せてようやく気持ちが和んだ。「どうして姫様たちと踊らないのですか? ダンスが嫌いなのですか?」とイーシャに尋ねられて、アビー王子は「そんなことはない」と答えた。踊りは好きだ。一人で踊るのも、誰かと踊るのも。けれど、誰かと踊る時はその相手こそ大事なのだ。息の合う相手と踊らなくては楽しくない。きっとイーシャであれば楽しく踊れる。アビー王子はそう思い、イーシャの手を取って、まだ耳に残る舞踏曲の一節を共に踊ってみせたのだった。

革命家の女は立ち止まり、四方をきょろきょろ見回している。

アビー王子は足早に広間を通り抜け、向いにある別の扉を押し開いた。

まさか。

アビー王子の腕には鳥肌が立った。想像通り、扉の向こうにはまた通路が続いていたのだ。スファン王宮の構造にそっくりである。

 革命家の女は不思議そうな顔をしてアビー王子の後をついてくる。アビー王子はどんどん通路を進み、階段をのぼり、また通路を進んでいった。

この廊下の右には姉上の部屋が、左には弟の部屋……。

右を見る。そこには何もない部屋がくりぬかれていた。その向かいにもやはり、四角くくりぬかれた青い部屋がある。アビー王子は両目に涙が浮かんでくるのを感じた。構造があまりにもスファン王宮に似ている。ここは……。

「パルミル王宮だ……!」

 海底の光に浸された王宮遺跡に、アビー王子の声が明瞭に響く。

バース王国とベリア王国がまだひとつの王国であった時代、この王宮を境にふたりの王子が国をわけたのだと、イーシャが言っていた。アビー王子が亡命したシャワル城はちょうどバース・ベリアの国境にある。間違いない。これはパルミル王宮遺跡だ。砂の下に埋もれていたのだ。アビー王子は失われたスファン王宮のことを思い出す。スファン王宮に併設された神殿も、王宮内で最も高いところにあった。神殿だけが地上に残り、あとは全て砂の下、ということなのだろう。

「パルミル王宮?」

 革命家の女は怪訝な顔つきでアビー王子を見上げる。アビー王子は慌てて言った。

「古代の王宮遺跡だよ。何百年も昔になくなった国の王宮だと思う。……な、なんで知ってるかって、いや、その、盗掘をしていると歴史に詳しくなるものじゃないか。君も泥棒ならわかるだろう?」

 アビー王子は上手くごまかせたと思った。革命家の女が自分を「泥棒仲間」と呼んだことを覚えている。これなら革命家の女も「そ、そうかもね」と言うしかない。アビー王子はそう思ったが、革命家の女は濃い眉を歪め、曖昧に微笑んだだけだった。

「ねえ、どっちに行けばいいのかしら。あの城から脱出できたのはいいけど、こんな迷宮みたいな遺跡じゃ外に出ることなんて」

「ついてきたまえ」

「えっ、あんた、まさか道がわかるの?」

「……勘です」

この廊下を右手に曲がって、その突き当りにイーシャのバルコニーがあるはずだ!

アビー王子は高鳴る胸にスファン王宮での日々をよみがえらせる。

アビー王子が生まれた日、オアシスで新種のバラが発見され、研究者は王子誕生の祝いとしてこの新種のバラを「アビーローズ」と名付けた。スファン王宮に届けられたアビーローズは庭園とバルコニーで大切に育てられている。それがスファン王宮に仕えるようになった時からの、イーシャの仕事だった。イーシャはアビーローズのそよぐバルコニーを気に入っていた。イーシャに用事がある時にはそこに行けば会える。だからアビー王子はそのバルコニーを「イーシャのバルコニー」と呼んでいたのだ。……すべて燃やされた。ムアを筆頭とする革命軍によって。アビー王子の瞳を覆った涙の膜は、瞬時に色を変えた。

「ねえ! 出口じゃない?」

 革命家の女の明るい叫びに、アビー王子は栄華の記憶から現実のパルミル王宮へと引き戻された。

向こうに白い光が見える。イーシャのバルコニーの方から。朝日だ。砂に覆われたバルコニーへ差し込む白い暁光は、夜光石でできた回廊を透明に照らしていた。足元が悪い。吹き込む砂漠の風が、床を劣化させているらしかった。アビー王子と革命家の女は転ばないように手を取り合ってバルコニーへと進む。

バルコニーの先にあったもの。それは月下に広がるオアシスだった。

透明度の高い夜に支配された砂漠。その頂に輝く満月。このオアシスはシャワル城にほとんど隣接していた。

ナツメヤシのさざめきの向こうに、オアシスの湖が波打つ音も聞こえる。何よりアビー王子の目を奪ったのは、足元に咲き誇るアビーローズだった。アビー王子はあっと声をあげる。なんという偶然だろう!

「このバラは!」

 アビーローズじゃないか! そう言いかけて、アビー王子は思いとどまった。まさか革命家の女にアビーローズの話をするわけにいかない。

しかし革命家の女がバラを無視することはなかった。

「何? このバラがどうかしたの?」

「い、いや。なんでもない。気にしないでくれ」

 革命家の女はしゃがみ込み、一輪のアビーローズに指先を伸ばすとアビー王子を見上げて微笑んだ。

「綺麗ね」

革命家の女の柔らかな眼差しに、アビー王子の胸は思わず高鳴った。アビー王子は波打つ血潮を鎮めるために鼻で深く息を吸い込む。

勘違いをするな。綺麗なのはアビーローズだ。僕じゃない。

アビー王子は咳払いをする。

革命家の女はアビー王子から目をそらすと再びアビーローズを見た。深紅の柔らかな花弁に指先が触れる。アビーローズの花弁はほどけるように崩れ散った。

「今だから言うけど。あたしね、実は泥棒じゃないんだ」

 革命家の女はアビーローズから指先を引くと立ち上がり、腰帯から短剣を引き抜いた。銀の刀身が黎明の光を集めて閃く。覚悟を宿した双眸で、革命家の女は刃を見つめていた。

「アビー王子を殺しに来たの」

 革命家の女は立ち上がり、アビー王子に目線を定めて薄い唇を引き結んだ。革命家の女の瞳は、アビー王子と同じ決意に燃えている。

 アビー王子はまったく虚を突かれた。

この女!

 アビー王子はマントの下に左手を伸ばし、短剣の柄を強く握りしめた。

初めから私の正体を知っていたのか!

アビー王子がマントを翻し、剣を抜き放とうとしたその時、革命家の女は短剣の刃をひらりと下げた。がっくり肩を落とすと大きくため息をつき、短剣を鞘におさめ、それを腰帯に深く沈めた。

「でも、今日は見つからなかったんだ」

「見つからなかった?」

 アビー王子は思わず素頓狂な声をあげてしまった。まずい、ととっさに口を覆う。革命家の女は疲れきったように前髪をかきあげて目を細め、アビー王子の顔を眺めた。

 アビー王子ははっと気付く。

「君は……もしかしてアビー王子の顔を知らないのか?」

「当たり前じゃない。あんただってそうでしょ? 泥棒の分際で王子さまに会ったことがあるとでもいうわけ?」

「それは……そうだけど……。じゃあどうやって殺すつもりだったんだ?」

「一目見ればわかるでしょ? 金や銀の刺繍のマントや宝石の縫い付けられた、動きづらいだけの無駄に豪華な衣装を着てるに決まってるじゃない」

 確かに……。

アビー王子は普段着せられている衣装のことを思った。

「あたしは一度バースに帰るわ。ムアに報告をしなくちゃならないし。あんたはどうする?一緒に来る?」

「いや」

 それはできない。アビー王子はなんと言い訳をしようか考えたが、革命家の女は「そう」と頷いた。その湿った声色に、アビー王子の胸はなぜだかきゅっと絞られた。

「また会えるかな?」

 胸を締め付けた痛みを解くために、アビー王子の口はほとんど無意識に動いた。アビー王子は革命家の女から顔を背け、慌てて首を横に振る。

僕は何を言っているのだろう!

 いや、いや、とアビー王子は顎を撫でて考えた。

そうだ、一旦冷静になろう。一度この女をバースに帰してムアに「国境のシャワル城にアビー王子はいない」と報告させるのだ。うん、そうだ。殺すのはその後がいい。僕の身の安全を確保してから殺してもいいはずだ。むしろその方が得策といえよう。いや、しかし、そう上手くいくものだろうか。答えによっては今ここで殺……。

 革命家の女はアビー王子の問いかけに「えっ」と息をつめた。瞳を大きく見開く。直後、革命家の女はアビー王子を見つめて頷いた。

「もちろん」

 とたんに、アビー王子の胸はいっぱいになった。

いや、いや、私は、復讐の機会に再び恵まれたことが嬉しいのだ。

アビー王子は自身に言い聞かせる。

そうだ。復讐の機会はもう一度ある。もう一度あるのだ。

アビー王子はスカーフで頭と顔を覆い隠し、破れて穴だらけになった薄いマントを翻した。

「それでは、またこのオアシスで会おう。次の満月の夜に」

「いいわよ。次の満月の夜ね」

革命家の女は砂の絡んだ黒髪を夜風に揺らすと、手を振って歩き出した。と見えた直後、はっとこちらを振り返った。革命家の女は目尻と口角に微笑を灯す。それにつられてアビー王子の頬は一ヶ月ぶりに緩んだ。

「あのさ、名前を聞いてもいいかな?」

 革命家の女の瞳は宇宙を映して深く青い光をたたえていた。砂の中で眠る夜光石よりも、もっと無垢な光を。

「あたしはファイザ。あんたは?」

 アビー王子は返答に窮した。本当の名を教えるわけにいかない。ファイザは革命家の女で、アビー王子の命を狙っているのだから……。何か偽りの名を。しかし迷っている暇はない。自分の名前を聞かれてすぐに答えられないのは不自然だ。何か、今すぐに答えなければ……。

その時、アビー王子は脳裏には、遠い兄弟であるベリア王国王位継承者の名が閃光を放った。

「カルロだ」


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「嘘つきたちの幸福」第2幕|青野晶 (note.com)

【創作大賞2024応募作】
#創作大賞2024 #恋愛小説部門

★全幕まとめ★
第1幕 「嘘つきたちの幸福」第1幕|青野晶 (note.com)
第2幕 「嘘つきたちの幸福」第2幕|青野晶 (note.com)
第3幕 「嘘つきたちの幸福」第3幕(前編)|青野晶 (note.com)
     「嘘つきたちの幸福」第3幕(中編)|青野晶 (note.com)
     「嘘つきたちの幸福」第3幕(後編)|青野晶 (note.com)
第4幕 「嘘つきたちの幸福」第4幕★完結★|青野晶 (note.com)


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