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「嘘つきたちの幸福」第3幕(中編)

初めから読む→「嘘つきたちの幸福」第1幕|青野晶 (note.com)
前回の話→「嘘つきたちの幸福」第3幕(前編)|青野晶 (note.com)

■第3幕 第9場
イーシャは水瓶を両腕にぎゅっと抱えたまま、息を切らせて走っていた。呼吸は苦しく、脇腹は痛いのに頬は健康的に蒸気している。同じ色のバラが一輪、水瓶の中で揺れていた。
イーシャがシャワル城にたどり着いた時、もう日は翳りを帯びていた。水瓶を抱えたまま、イーシャはアビー王子の姿を探す。もちろん、オアシスで出会った女のことをカルロ王子に話す約束も忘れていない。しかしイーシャにとって最も大事な用事は、アビー王子にあった。
早くアビー王子にこれを見せたいわ! 見てください、アビー王子。オアシスで見つけたんです! ほら。アビーローズが咲いていたんですよ! って。ああ、アビー王子はどこにいらっしゃるのかしら。
オアシスからシャワル城にたどり着く前に、イーシャは心の中で何度も報告の言葉を反芻した。アビー王子はきっとイーシャと同じくらい喜んでくれる。喜びに手を取り合う二人の様子を、イーシャは何度も脳裏に描いた。
ああ、早く。早く現実の言葉に。現実の喜びに。
イーシャは願ってシャワル城内を走り、アビー王子の部屋をノックする。ところがアビー王子は出てこない。不在のようだった。
「アビー王子?」
 イーシャはドアに向かって呼びかけて、扉に耳を当てる。部屋の中からは何も聞こえない。悪いと思いながらも、そっとドアノブに触れる。握る。そしてひねった。ところが鍵がかかっている。この前は鍵をかけていらっしゃらなかったのに、とイーシャは思った。
カルロ王子とタスチェを召し上がっているのかしら?
 日没以降、アビー王子が自室にいないとしたら、それくらいしか可能性がない。きっとアビー王子はカルロ王子の部屋に招待されていて、タスチェを召し上がっているのだろう。イーシャはそう検討をつけて、渋々カルロ王子の部屋に向かうことにした。アビーローズを一刻も早く見せたい、という用事でなければ、アビー王子が部屋に戻ってくるのを待ってもよかったかもしれない。しかし今は、今だけは違った。オアシスで偶然にもアビーローズを見つけたのだ。これは反革命が成功する吉兆に違いない。占星術を信じないイーシャだが、それでもアビーローズとの再会によせる運命は信じた。
早く、早くアビー王子にこのことを知らせなくては!
日没までまだ少し時間があるが、カルロ王子はそろそろオアシスには向かう頃だろうか。イーシャ自身のためにも、オアシスの女のためにも、さっさとタスチェを解散させなければならない。アビー王子には水瓶の中のアビーローズを見せて、ちょっかいを出してきたカルロ王子には「オアシスで恋人がお待ちですよ」と言ってやろう。イーシャは心を決めて、カルロ王子の部屋をノックした。
イーシャがカルロ王子の部屋をノックすると、予想通りにカルロ王子がドアの向こうから顔を出した。
「誰だ? 俺のタスチェの時間を邪魔す……やあ! イーシャじゃないか!」
 カルロ王子は飛び上がって喜んだ。
「こんばんは。カルロ王子」
 イーシャはわざとらしく声を作る。
 そうやって私が来たことを特別嬉しい、みたいな演技をなさっても無駄ですのよ。知っているんですからね。カルロ王子には秘密の恋人がいらっしゃるってこと。
 イーシャがそう言おうとした時、カルロ王子はひとつ咳払いして羽織の前を正し、水瓶のバラを指さした。
「それは私への贈り物かな?」
 イーシャはバラに触れようとしたカルロ王子の手をはねのける。そして呆れたように眉をひそめた。
 カルロ王子はイーシャのしかめっ面を不思議そうに眺めた後、しげしげとバラを見つめた。
「初めて見る。このあたりに咲くバラか?」
「まあカルロ王子ったら白々しいですわ」
 イーシャは唇を尖らせた。
「カルロ王子、オアシスで恋人がお待ちでしたよ。アビーローズの茂みで。それより、アビー王子はどこです。こちらにいらっしゃるのでしょう?」
「恋人?」
 カルロ王子はとぼけた返答をする。イーシャはカルロ王子の背後を覗き込んだが、部屋の奥にアビー王子の姿は見えない。
「いったい何の話だ?」
 カルロ王子はこれまでに見たことがないくらい真剣な顔つきでイーシャを見つめた。
イーシャは思わずどきりとする。嫌な予感がした。
「カルロ王子。カルロ王子は、今晩オアシスの恋人に会われるのでしょう。私、カルロ王子の恋人に先ほど会ったんです。あんな素敵な方がいらっしゃるのに、私のことなどもてあそんでおられては、あの方に失礼では……」
「いったいなんのことを言われているのか、俺にはさっぱりわからない」
 カルロ王子にしては珍しく冗談を言っている様子ではない。カルロ王子は本当に困惑している。オアシスの女のことも、女と待ち合わせているはずの場所に咲いているアビーローズも、カルロ王子は見たことがないのだから当然だった。
イーシャは全てを否定したい気持ちでゆっくりと首を横に振った。
「まさか……まさか……。アビー王子はこちらにおられないのですか?」
「今日はアビーにタスチェを断られた。月に一度はイーシャと夕食をともにする約束があるからと」
 イーシャは呆然として水瓶を落とした。足元のカーペットは水浸しになり、水瓶が転がる。カルロ王子は驚いて水瓶を拾い上げた。
「大丈夫か? イーシャ」
カルロ王子は驚いてイーシャの顔を覗き込んだが、イーシャはカルロ王子と目を合わせようとはしない。
廊下に一輪落ちたアビーローズはまだ芳しい香りを放っていた。
「私は今、アビー王子を探しているところです。タスチェのお約束などしておりません……」
「どういうことだ? じゃあ、アビーはどこに?」
「これは仮説ですが……」
 イーシャはみるみる蒼白になる。
カルロ王子は足元が濡れるのも気にせずに、ゆっくりとイーシャに歩み寄った。
「……その前にカルロ王子、ひとつ確認したいことがございます」
「なんだ?」
「私は、アビー王子に、月に一度聞かれるのです。『満月まであと何日かな』と。初めてそう聞かれた時に『どうしてそんなことをお気になさるのですか』とお聞きしたら、『カルロ王子に聞かれるからだ』と、おっしゃっていたのですが」
「いや、俺は『満月まであと何日か』とアビーに聞いたことなど一度もない」
「これでわかりました」
 イーシャが涙をこぼし始めたので、カルロ王子はうろたえた。ポケットからチーフを出してイーシャの涙を拭う。
「イーシャ、いったいどうしたというのだ」
 カルロ王子は眉間に深く皺を寄せている。イーシャは溢れる涙でチーフを濡らしながら答えた。
「アビー王子がおられるのは、オアシスです」
「オアシス?」
「ええ。オアシスの、アビーローズの咲きこぼれる場所でございます」
 カルロ王子はイーシャの震える背をさすりながら考えていた。
どうしてアビーは、俺やイーシャに嘘をついてまでオアシスに向かわなければならなかったのだろう。
「イーシャ。落ち着いてからでいい。教えてくれ。状況が読めないんだ。アビーはどうしてオアシスに行ったんだろう?」
イーシャの嗚咽が深くなる。
アビー王子はオアシスの女のために嘘をついたのだ、とイーシャは気付いた。オアシスの女はアビー王子のことをカルロ王子だと思い込んでいる。そして、そう仕向けたのはアビー王子の方だ。アビー王子は名を「カルロ」と偽ってあの女に近付いたに違いない。オアシスの女と満月の夜にだけ会う約束をしている恋人。これはアビー王子に違いないのだ。アビー王子は王子の身分を隠してオアシスの女に会っている。
ああ、私が、私がオアシスの女であればよかった!
イーシャは苦しくてたまらない。スファン王宮に仕え、アビー王子の亡命を助け、将来は、アビー王子と恋人になれるかもしれないと夢見た。そうして夢見ていた間にも、アビー王子は恋人のことを想い、アビーローズの咲きこぼれるオアシスで、満月の下、彼女と踊っていたに違いない。
イーシャの流す涙にうろたえながら、カルロ王子はイーシャを支えて背や肩を優しく撫でた。イーシャ。カルロ王子はイーシャの悲しみを前にして、彼女の名前を繰り返しつぶやくことしかできない。ただイーシャが理由を語ってくれることを待った。いつまで待っていてもよかった。その時間が長くなるほど、カルロ王子はこうしてイーシャのそばにいられた。
「……革命家の女」
 不意にイーシャはつぶやいた。その小さな声を、カルロ王子は聞き逃さなかった。
「革命家の女?」
 ようやく拾い上げたイーシャの言葉を、カルロ王子は自身の唇に宿す。
 イーシャはこくんとうなずいた。鼻をすすると、まっすぐにカルロ王子を見つめることを意識した。嘘をつく者は目を逸らすものだと、アビー王子を見て知っていたから。
「何ヶ月か前に、革命家の女がアビー王子のお命を狙って、シャワル城に侵入したのです。その革命家の女が、きっとオアシスに潜んでいるのです!」
 イーシャはほとんど叫んだ。本物なのか、演技なのか、自分でも判別のつかない涙があふれて散る。こんなにも悪意ある嘘をつくのは初めてだ、とイーシャは思った。階段をかけあがった後のように心臓が大きく脈打っている。無実であるオアシスの女に「革命家の女」の濡れ衣を着せるのは心苦しかった。しかし、しかしそれ以上に、アビー王子をとられたくない。どうしても。イーシャの嘘は止まらなかった。
「お願いですカルロ王子。助けてください。私たちのバース王国を助けて。革命家の女はバース王家の最後の生き残り、アビー王子をたらしこんで、暗殺する気でいるに違いありません!」
「なんだと!」
 カルロ王子は驚きのあまり、イーシャの両肩をさすっていた手のひらに力をこめた。目を見開き、イーシャの視線にこたえる。カルロ王子とイーシャは至近距離で見つめ合う形になっていた。互いにそのことに気付くと、カルロ王子とイーシャはとっさに身を離して背を向け合った。カルロ王子は深く息を吸い、心を落ち着けると、イーシャを振り返った。
「イーシャ、それは間違いないことか? アビーは今晩にも、革命家の女に殺されようとしているのか?」
 イーシャも振り返り、カルロ王子に答える。
「ええ。お可哀想に、アビー王子はその革命家の女に騙され、彼女を恋人だと思い込んでいるのです。その隙をついて、革命家の女は今晩こそ、オアシスでアビー王子を刺し殺すに違いありません……!」
 カルロ王子はマントを勢いよく翻し、廊下を駆け出した。
「イーシャ、心配しないでくれ。今すぐ軍隊を指揮する!」
 走るカルロ王子をイーシャは追いかけた。
「私も! 私も行きます!」
 アビー王子をお助けしなくては。
イーシャは自分の考えた嘘に酔い始めていた。ほとんどそれは、イーシャにとって本当のことになりかけていた。
 
 
■第3幕 第10場
アビー王子は約束通り、満月の夜にオアシスに現れた。今晩はカルロ王子のタスチェに付き合っていられない。カルロ王子に苦手意識を持っているらしいイーシャは、アビー王子とカルロ王子とのタスチェには絶対に顔を出さない。その時間は自室にこもりきりになることを、アビー王子は習慣として知っていた。だからカルロ王子にはこう嘘をつくことにした。「その日は久しぶりに、イーシャと夕飯をともにする約束になっているんだ」。イーシャはカルロ王子との接触を嫌がるから、この嘘は見破られないはずだと、アビー王子はかたく信じていた。
 ファイザとの約束はしっかり覚えていた。ファイザとともにアビー王子を探して暗殺しないかということ。その答えを、今日ファイザに伝えなければならない。ファイザが自由民として幸福に生きるためには、アビー王子の死が必要なのだ。しかしアビー王子は革命家たちのやったことを許すことはできない。
 アビー王子は覚悟を決めていた。この日のために短剣の刃を研ぎ、油を塗ってある。切れ味を鋭くする工夫は全て凝らした。今日こそ、すべての決着をつけなければならない。アビー王子はシャワル城の地下に広がるパルミル王宮遺跡を通り抜け、地上のオアシスへ踏み出した。満月の光の降り注ぐそこには、アビーローズが赤い花弁を散らしている。その香しい夢のような場所に、ファイザは立っていた。
「ファイザ」
 胸に溢れる熱い想いを押し留められず、アビー王子はその名を呼んだ。
 いつも通りの格好で来た、とファイザは思った。
この男は、貧しいからこれ一着しか服を持っていないのだと思っていた。ついさっきまで。
しかし今、ファイザは真実を知っている。
 この人は王子さまだから、貧乏人に変装するための服をこれしか持っていないんだわ……。
 そう思うと急に泣けてきた。どうして彼はこんな嘘をつくのだろう。
「カルロ。今日はお別れを言おうと思って」
 ファイザは切り出した。
もうこれ以降、カルロに会うのはやめよう。王子さまが私を本気で愛してくれるなんて、そんなこと、あるわけないのだから。
 何を言い出すのかと、アビー王子はびっくりして言葉が出てこなかった。
「さっき私、聞いてしまった。カルロ、あなたが王子さまだってこと。どうしてそんなにぼろぼろの服を着ているのか、事情はわからないけれど。カルロ、あなたは、本当は王子さまなんでしょう?」
「どうしてそれを……!」
「あなたの従者に会ったのよ」
「イーシャに?」
 名前はわからないけれど、とファイザは首を振った。
「でも、優しい人だった」
「イーシャだ」
 アビー王子はしばらく息をつめたあと、口を開いた。
「ファイザ、君は僕を殺そうとは思わないのか?」
「どうして、私がカルロを殺さなければならないの?」
 ファイザはぽかんとアビー王子を見上げる。
 アビー王子は「まいった」と言いたげに頭を掻いた。イーシャと話したのにも関わらず、どういうわけかファイザはまだアビー王子のことををカルロ王子だと思い込んでいるらしい。
ファイザは踊り疲れて倒れてしまったこと、倒れた後にイーシャが見つけてくれてスモモを食べさせてくれたこと、イーシャから「あなたの恋人はカルロ王子です」と言われたことをアビー王子に語った。
「私を騙していたんだね、カルロ。ベリア王国の王子さまならいくらでも高貴なお相手がいるはずなのに。それなのに私、みじめだわ」
「ファイザ、聞いてくれ。違うんだ。何もかも全然違う!」
 アビー王子が真実を語ろうとしたその時、鋭い笛の音が夜気を裂いた。雑踏が押し寄せてくる。
突然舞台に物々しい空気が漂い、アビー王子とファイザはとっさに身を寄せ合った。舞台後方へはける。
兵士のコール・ド・バレエ。カルロの指揮するベリア兵たちは統率の取れた群舞を披露する。舞台中央はカルロ王子とベリア兵隊長だ。兵士たちは二人を囲み、勇ましく長剣を振るって舞う。回転。跳躍。兵士たちは見事にファイザを捕らえる。アビー王子とファイザは引き離された。
「危なかったな。アビー。お前をたらしこんでいるのは革命家の女だ! 王都スファンを焼き討ちにし、バース王家を滅亡に追い込もうとした革命家の女だ!」
 カルロ王子はアビー王子に歩み寄り力強く抱きしめた。アビー王はカルロ王子の背中越しに見えるファイザに手を伸ばす。よく似た王子二人の影が、砂漠の月光に照らされていた。二人の王子の抱擁を、イーシャは少し離れたところから見守っていた。
 ベリア兵に捕えられたファイザは身体をよじるのをやめて、二人の王子を見ていた。こちらに手を伸ばす彼が見える。そしてその彼を抱き止めるのは……もう一人のカルロ? しかしファイザの愛する彼はボロの服を着ているというのに、もう一人のカルロは真珠を散りばめた黄金刺繍のマントを肩にかけていた。本物の王子の装いだ。
「離してくれ! カルロ!」
「アビー。落ち着くんだ。あの女に近付いたらいけない。危険だ」
 アビー? 
 ファイザは眉をひそめる。確かに今「アビー」と聞こえた。もう一人のカルロが、本物の王子さまに見える方のカルロが、ファイザの愛しい彼のことを、あのボロを纏った彼のことを「アビー」と呼んだ。
これはいったいどういうこと?
ファイザは両手首をベリア兵たちにつかまれ、背に回されていた。手首を捻られる痛みに耐えながら、ファイザは二人の王子を眺める。
 カルロ王子はアビー王子を羽交締めにして必死の説得を試みた。
「アビー、あの女はお前を陥れる悪魔だ。冷静になってくれ。イーシャが教えてくれたんだ。ここに革命家の女がいるって。その革命家の女が、アビー、お前を誘惑し、隙を狙って殺そうとしていた。間に合ってよかった。お前は殺されるところだったんだ。イーシャが気付かなければ、お前は今頃」
「イーシャ?」
 カルロ王子の言葉をさえぎるようにアビー王子は従者の名前を口にした。その瞬間、アビー王子はカルロ王子の腕から逃れようともがくのをやめた。カルロ王子はようやくアビー王子が正気に戻ったのだと思い、ふうと息をつく。背中にかいた汗が夜風を含んで冷たかった。カルロ王子の腕から逃れたアビー王子はその場に立ちすくむと向こうにいるイーシャを見た。
「どうして、ファイザが革命家の女だとわかった……?」
 アビー王子に驚愕の目を向けられて、イーシャは戸惑った。
「アビー王子……。まさか、まさか本当に、革命家の女なのですか?」
 イーシャはベリア兵に捕えられた女を見た。女はばつの悪そうな顔をしてうなだれる。イーシャは勢いよくアビー王子を振り返った。アビー王子は何も答えない。ただ傷ついたような顔をしてイーシャを見つめ返すだけだった。イーシャは鼻の奥がつんとしてきて、涙をこらえるために奥歯を噛み締めた。
 アビー王子! どうしてそんなお顔をなさるのです!
 心の中で繰り返しそう叫んだ。急騰した感情を身体に押し留めることはできない。イーシャは深く息を吸い込み喉の奥を開いた。
「どうして革命家の女と満月の夜に会う約束などしているのですか! アビー王子! どうして! 革命家にどんなことをされたか、アビー王子がお忘れのはずがございません! 革命家からスファン王宮を取り戻すために亡命したのではないのですか! そうするために、カルロ王子に軍隊を貸してほしいと頭を下げたのではございませんか! スファン王宮を占拠した革命軍を打ち払うためならなんでもするという目をなさっていたではありませんか! アビー王子。それなのにどうして、革命家の女と共にいるのですか!」
反革命のヴァリアシオン。革命で国を追われたアビー王子を献身的に支えてきたイーシャ。ところがアビー王子の心さえ革命家に奪われてしまう。可憐な舞には激情が渦巻き始める。軽やかなフェッテやピルエットは回数を重ねるごとに激しく勢いを増す。反革命に費やしてきた時間は、労力は、この気持ちはなんだったのか? 絶望と愛に打ちひしがれる才女の気品あふれるアラベスク。
「革命家の女をシャワル城の地下牢に閉じ込めろ!」
 カルロ王子がベリア兵たちに向かって叫んだ。ファイザを捕らえたベリア兵たちがファイザを強引に引っ張って歩き出す。カルロ王子の声はアビー王子の声とよく似ていた。
カルロ王子が投獄を命じる声を聞いて、ファイザは絶望した。どうしてカルロが二人いるのか、その理由はまったくわからない。しかし今、ファイザを牢獄に閉じ込めるように命じた異国の王子こそ、カルロの本当の姿であるような気がした。
 カルロは、私が信じた優しいカルロは、最初からいなかったのかもしれない……。
 ファイザの瞳から涙が一粒こぼれ落ちて、砂漠を渡る涼風に吹かれた。涙の雫は一輪のアビーローズの花弁を洗う。ファイザはうなだれ、ベリア兵に連れられるがままに歩み出した。
「放してくれ!」
 ファイザに駆け寄ったのはアビー王子だった。アビー王子はマントを脱ぎ捨てると腰帯から短刀を引き抜いた。研ぎ澄まされた刀身を満月に閃かせて振り回す。
「カルロ!」
ファイザが叫んだ。ファイザがアビ―王子を「カルロ」と呼んだために、ベリア兵たちは困惑した。アビー王子とカルロ王子はそっくりで、ベリア兵たちも正確に見分けることができなかったのだ。今自分たちに命令をしているのが本物のカルロ王子かもしれない。そんな疑惑が兵たちの心に影を差した。一方の王子は「捕らえろ」と言うし、もう一方の王子は「放せ」と言う。さあ、どちらの言うことを聞けばいいだろう? ベリア兵たちは迷った。しかしファイザがもう一度アビー王子を「カルロ」と呼んだ時、ついに手の力をゆるめることに決めた。やっぱり、目の前にいる王子こそ本物のカルロ王子である気がしたのだ。
「二人で逃げよう」
「カルロ、私、いったい何が何やら」
 アビー王子はファイザの手を引き、砂漠の下へと続くパルミル王宮のバルコニーへ駆けて行った。
「何をしている!」
 息を切らせて走ってきたカルロ王子は、逃げていくアビー王子とファイザの背を見て血相を変えた。カルロ王子の後ろには同じ顔色のイーシャがやはり息を切らしている。
「どうして逃がした!?」
 カルロ王子がベリア兵隊長に詰め寄ると、兵隊長は困ったように頬を掻いた。
「失礼ですが……。貴方さまが、本物のカルロ王子でしょうか」
「当たり前だ! 今逃げていったのはアビー王子だ! 本物のカルロはこの俺だ!」
「申し訳ございません……。女がアビー王子のことを繰り返し『カルロ』と呼ぶものですから……」
「どういうことだ?」
 カルロ王子はイーシャを振り返る。イーシャは首を振る。
「説明している時間はございません。二人を追いましょう」
「そうだな」
 カルロ王子はイーシャとうなずきあい、走り出した。ベリア兵隊長は二人を追いかけるよう部下たちに命じて、全員でパルミル王宮の入り口へと急いだ。
 
■第3幕 第11場
ムアははっとした。スモモの森のその先、オアシスの湖畔を、ファイザが走っていくではないか。
「ムアさま、どうかされましたか」
 従者の男がムアの表情の変化に気付いた。ムアは蓄えた髭をさすって答える。
「ファイザだ。男といる」
「まさか!」
 従者の男はムアの視線の先に目をこらす。確かにファイザがいた。ファイザは男と手を繋ぎ、砂に埋もれた遺跡の中へと入っていく。
「あれは本当にベリア王国のカルロ王子でしょうか?」
 従者の男は首を傾げてムアを見上げた。
 ファイザが手を繋いでいた男は遠目からでもわかるほどボロボロになった服を着ていた。カルロ王子があんな恰好をするものだろうか? 従者にはそうとは思えなかったが、ムアは気にしなかった。
「別に誰であろうと構わん。ファイザも男も殺してやる。逃しはせん」
 ムアは彎刀を握りしめて掲げ上げると、引き連れてきた革命軍に向かって叫んだ。
「出撃! ファイザと男を捕らえよ!」
 ムアの猛進に革命軍の兵士たちが続いた。スモモの森を抜けた時、ムアはファイザと男を追っているのは自分たちだけでないことに気付いた。もう一組の男女がこちらに駆けてくる。軍隊を率いて。二人とともに走る兵隊長は、ベリア王国の国旗を掲げていた。
激突する軍隊のコール・ド・バレエ。ムア軍とカルロ軍の衝突を群舞で表現する。彎刀の革命軍と長剣のベリア軍による熾烈なダンスバトル。バレリーナも男装する。
「バースの革命軍ですわ!」
 イーシャが悲鳴をあげた。
 カルロ王子は立ち止まり、イーシャの震える肩に触れた。イーシャはカルロ王子を見上げる。遠くを見つめる瞳はやはりアビー王子のそれに似ていた。
 ああ、この方が本物のアビー王子であればよかったのに……。
 この瞬間にもそんなことを思ってしまうのが、イーシャは自分でやりきれなかった。
ベリア兵隊長は長剣を振るい舞いながらカルロ王子に叫ぶ。
「カルロ王子! ここは私が食い止めます! シャワル城までお逃げください!」
 剣戟の交差する音が迫ってくる。カルロ王子は恐怖に打たれた。
やはりムアはバース・ベリアの平和条約を無視して攻め込んできたか……!
恐れていたことが思っていた以上に早く起こった。しかし間の悪いことだ。ちょうどシャワル城から出てしまった日に限ってこんなことになろうとは。
ムアはバース王家が宮殿を構えていた首都スファンを占領した革命家だ。アビー王子を除くバース王家の者を全員断頭台に送っている。平等な世界を築くのに王家は邪魔だという思想を強く持っていることを考えると……。
ベリアに攻め込んできたということは、当然、俺の命も狙われている。今すぐに逃げなくては……。
カルロ王子はにわかに後悔し始めた。なぜ安全なコルー王宮を出てシャワル城に来てしまったのか。なぜ今日に限ってシャワル城の外へ出てしまったのか。不運が重なって、今、カルロ王子は命の危険に晒されている。
「カルロ王子」
 優しい呼び声に、カルロ王子は我に返った。
「シャワル城にお戻りください。ここからは私ひとりでも」
 イーシャがすべてを言い切らないうちにカルロ王子はイーシャの手を握り、駆け出した。
いや、いや、俺は何を考えていたんだ。ここに来なければ、イーシャに出会えなかったではないか。
カルロ王子は笑みを浮かべて勢いよく後方を振り返る。
「兵隊長! 悪いな! なんとか頑張ってくれ! 俺は砂漠の下の遺跡に隠れるとする!」
「カルロ王子! おやめください! シャワル城へ! シャワル城へお戻りください!」
 ベリア兵隊長の制止の甲斐もなく、カルロ王子はパルミル王宮遺跡へと向かっていく。
「アビー王子を、助けてくれるのですか」
 ご自身の命だって危ないのに。イーシャは続く言葉を口にする代わりに目を大きく開く。カルロ王子はちょっと困ったように微笑んだ。
「もちろん。アビーは俺の兄弟だからな」
「ありがとうございます。このご恩は必ず……」
「いや、嘘だ」
「嘘?」
「……君をひとりにできない」
 カルロ王子はイーシャにほほえみかけると、服が汚れることも気にせずパルミル王宮に身体を滑り込ませた。立派な服に縫い付けられていた宝石も真珠もはじけ飛び、月光を浴びて輝いた。宝玉は次々に砂の上に落ちていく。イーシャはカルロ王子の導きに従い、パルミル王宮遺跡に侵入した。
パルミル王宮遺跡に滑り込んでいったカルロ王子を視界の端にとらえて、ムアは叫んだ。
「アビー王子だ!」
 彎刀を力任せに振るい、ベリア兵をなぎ倒す。しかしムアと同じくらい勇猛に戦える戦士は、革命軍側にもいなかった。
「追え! 全員、アビー王子を追え!」
ムアがそう命令したところで、革命軍の兵士はベリア兵と剣を打ちあい続ける。ムアは舌打ちをすると一人で駆け出し、カルロ王子とイーシャの後を追ってパルミル王宮遺跡へと潜り込んでいった。
 
■第3幕 第12場
  夜光石でできた王宮遺跡の深奥へと歩き進みながら、カルロ王子はイーシャが間違いなくついて来ているか何度も振り返って確認した。イーシャと距離が開いてしまっている。カルロ王子は足を止め、イーシャが追いつくのを待った。ふと、青く輝く壁面に手を触れる。壁に入った亀裂から夜光石の欠片をひとつ手に取った。
「ゆっくり進もうか、イーシャ」
カルロ王子は優しく声をかけたが、イーシャは浅くうなずくだけだった。
カルロ王子は指先にあった夜光石の欠片を手のひらにこめると、ポケットに入れた。イーシャは思案に沈んでいるのか、カルロ王子と目を合わせようとはしない。
 イーシャは深刻に眉間に皺を寄せて考えていた。
アビー王子はどういうわけか革命家の女をお慕いなさってしまった……。しかし本当の名前を告げれば彼女に殺されてしまう。彼女に愛されるために「カルロ」と名乗ったのかもしれないわ。革命家の女はアビー王子をカルロ王子だと勘違いをしたまま、アビー王子の恋人になって……。
しかし、とイーシャは考える。革命家の女が真実を知るのも時間の問題だろう。恋人の正体がカルロ王子ではなくアビー王子だと知ったら、彼女はアビー王子を殺すだろうか。それとも……。
どうして。イーシャは思う。どうして私じゃないのですか! アビー王子!
「イーシャ、顔色が悪い。大丈夫か」
前を行くカルロ王子が心配そうに振り返ってきた。イーシャは顔を上げる。カルロ王子の背では弓が揺れていた。
「大丈夫です」
イーシャは答えながら、カルロ王子の肩から矢の入った袋が襷がけになっていることに気付いた。そうだ、カルロ王子は弓の名手なのだと、イーシャは思い出した。いつかアビー王子が教えてくれた。「カルロと狩猟に行ったよ。カルロはとても弓が上手いんだ。ウサギを見事に射止めていたよ」と。アビー王子は剣や弓の上手な扱い方を知らない。しかし他者を妬むということも知らないのだ。カルロ王子の成功をただ自分のことのように喜ぶ。
その清らかなお心を、私は……。
鼻の奥がつんとしてきた。泣かない。自分に言い聞かせて、イーシャは誓うようにうなずいた。
 たとえ革命家の女が刃を手にアビー王子を襲ったとしても。それでもアビー王子が革命家の女を殺すために剣をとることはないのだろう。
その愛を、私に向けてほしかった……。
イーシャの願いは無色透明の光になって夜光石に吸い込まれていく。イーシャは破れた夢を胸に抱きしめたまま奥歯を噛み締めた。しかし今は。今はとにかく、アビー王子を助けなければならない。イーシャは声が震えないように気をつけて息を吸い、前を行くカルロ王子に言った。
「アビー王子が危険です。どうか、アビー王子をお助けください」
「まかせろ」
 カルロ王子はイーシャの細い手を握り締め、力強く前進した。
 
■第3幕 第13場
 その頃、アビー王子はファイザと共にシャワル城内にある神殿を目的地に定めていた。神殿に続く隠し通路は大広間を突っ切った向かい側にある。大広間のドアを押し開け、銀に輝く幅の広い階段を上り、その先にある通路をまっすぐに行けば、神殿の祈祷台に続く狭い階段があるはずだ。地上に出たら祈祷台の上に重石を置いてしまえばいい。アビー王子の提案にファイザはうなずいた。二人はパルミル王宮遺跡に続く狭い廊下を歩いていく。
「ファイザ。怖がらせてすまない。もうすぐ大広間だ。大広間にはたくさんの出入り口がある。僕たちが初めて出会った日に開けた扉を探そう。その先に、シャワル城に続く神殿がある」
「そうね。もう少しだわ」
 アビー王子とファイザが大広間に出て扉を探そうとした、まさにその時、二人よりも先に大きな人影が大広間に踏み入ってきた。アビー王子は慌てて口を押さえて隠れる。ファイザにも「静かに」と目で言った。
「ファイザ」
 そう呼びかけたのはアビー王子の声ではなかった。呼び声は大広間に響く。
ファイザにはそれが誰の声だかすぐにわかった。恐怖のあまりアビー王子のマントをつかむ。
アビー王子は背をぴったりと廊下の壁につけ、ファイザを気にかけながら大広間の方を見た。
 夜光石でできた大広間は深海のようだった。輝かしい文明を時とともに凍らせて海に沈めたような静けさがある。パラレルに配置された柱は天井にいくほどY 字に広がる。枝分かれしたYの先端はそれぞれにつながり合い、アーチ形の天井を形成していた。白の塗装はほとんど剥がれ落ち、柱を作る強固な夜光石がむき出しになっている。夜になると光を放つこの石は、永遠の夜の中で光を放ち続けていた。天井から吊り下がるシャンデリアは水晶で作られていたが、夜光石の色を吸収して青く煌めいていた。
大広間にはゆうゆうと泳ぐサメのようにムアが歩いていく。
「ファイザ、どこにいる」
 ムアは独り言を繰り返しながら彎刀を握り、大広間を回遊していた。
 アビー王子はファイザに目配せをすると、元来た廊下を引き返していった。今あの広間に出るのは危険だ。どこか近くの部屋に隠れてムアが立ち去るのを待とう。アビー王子にはそれが最善策と思われた。
 二人は足音を立てないように気をつけて廊下を引き返し、大広間からそう遠くない一室に身を潜めた。ムアの姿が見えなくなったことに安心したのか、ファイザはようやく息ができるというような顔をしてアビー王子に抱きついた。
「カルロ」
 ファイザは声を抑えて愛しい恋人に呼びかけた。首の背に両腕を回す。しかしそれを、アビー王子はゆっくりとほどいた。
「ファイザ。落ち着いて、よく聞いてくれ。僕はカルロ王子じゃない」
 アビー王子はようやく本当のことを打ち明けた。
 ファイザはぽかんと口をあけている。
間違いないはずだ。ファイザが愛しているのは、初めて会った日からこのみすぼらしい男だ。とても王子には見えない男。彼で間違いない。それなのに本人はカルロではないという。彼の従者も「カルロ王子で間違いない」と言ったはずなのに。ファイザは考えるほど混乱してきた。
 その混乱を表情から読み取って、アビー王子は憂鬱な真実を明るみに晒した。
「僕の本当の名はアビー・バース。バース王家の末裔、アビー王子だ。ファイザに出会った日、僕は君に名前を聞かれて嘘をついた。『カルロ』と名乗ってしまった。君が、僕をとても恨んでいたから。白状してしまえば、僕はあの日、君を殺そうと思っていた。君は僕からバース一族を、スファン王宮を奪った。そんな人間なら、僕に殺す権利があると思った」
 ファイザは驚きのあまりに言葉を失っていた。ずっと探していたアビー王子はこんなにも近くにいたのだ。自分の故郷リア王国を滅ぼしたバースの王子。ファイザにとって悪の象徴であったはずのアビー王子は今、ファイザの心を深く温めていた。
「……しかし僕は君に出会ったあの日から、君を愛してしまったのだと思う。だから君に名前を聞かれた時、僕は嘘をついてしまった。『カルロだ』と。カルロはベリアの王子の名前だ。僕らは遠縁の親戚で、姿がそっくりなんだ。この嘘を突き通すことができれば、君も僕を愛してくれるのではないかと思ってしまった。願ってしまった。ファイザ。今日まで嘘をついてきてすまなかった。僕こそが君の憎むアビー王子だ」
 ファイザは叫び出したい衝動に駆られた。
 どうして。どうしてよりによってあなたが!
ファイザは思考が急回転するのを感じた。今、アビー王子を殺せばムアとの関係を取り戻せるかもしれない。アビー王子を殺すつもりでたぶらかしていたことにするのだ。アビー王子を殺す。そうすればムアと安心してスファン王宮で生活できるはずだ。ムアと結婚すればファイザは自由民になれる。しかし……。 
 アビー王子は自らの唇に人差し指を当て、小声でささやいた。
「もう少し待とう。ムアが大広間を通り過ぎるまで」
ムアは大声で「ファイザ」と叫んだ。夜光石の広間に声が反響する。
「この遺跡の構造はスファン王宮にそっくりだ!」
ムアはそう言って豪快に笑った。
バース王家を倒したムアはスファン王宮を乗っ取って暮らしている。スファン王宮内を歩き慣れているムアはパルミル王宮遺跡に入って来てからすぐにそのことに気付いたのだった。
「ファイザ、お前はそのうちにここを通る! 全ての通路がこの大広間に通じているはずだ!」
ムアは研ぎ澄まされた彎刀を抜いて頭上に掲げた。夜光石の放つ深く青い光に刀身は閃く。大広間に突如輝きだした細い三日月のように。
「ファイザよ! 聞こえるか。アビー王子を見つけた。アビー王子もこの遺跡のどこかに隠れている!」
ファイザはハッと顔を上げてアビー王子を見た。アビー王子は緊張の面持ちで耳を澄ましている。
「アビー王子が女を連れてここに逃げ込むのを見た。間違いない。宝石で飾った赤いマントを翻していた。あれは王族の装いだろう。アビー王子はすでにベリア王国に亡命している。ベリア風の王族衣装を身に着けていたからな。ファイザ、お前が俺に隠れて他の男と浮気していることはわかっている。そいつをここに引きずり出して来れば、今回ばかりは許そう。浮気男の命はないがな。その男を殺したら、二人で協力してこの迷宮のどこかにいるアビー王子を探そう。アビー王子を殺してスファン王宮に戻り結婚式を挙げれば、晴れてお前は自由民だ。ファイザ。聞こえるか。自由民になれるんだ」
 アビー王子は口を押えた。
 まずいことになった。ムアはカルロを僕と見間違えたんだ!
 アビー王子は頭を働かせる。ムアが見たというベリア風の王族衣装を身に着けていたのは、アビー王子ではなくカルロ王子だ。アビー王子が今着ているのはボロボロになった服である。宝石で装飾された赤いマントをまとっていたのはカルロ王子の方だ。そしてムアは「アビー王子が女を連れてここに逃げ込むのを見た」と言った。
カルロが連れていたのはきっとイーシャだ……。
考え込むアビー王子の隣で、ファイザは唇を震わせていた。
「アビー、私は……」
 初めてこの人の本当の名前を呼んだ、とファイザは思った。何を言えばいいだろう。私は自由民になりたい? しかしそれは、ムアがアビー王子を殺すことを意味するだろう。
私の自由のために、私の幸福のために死んでほしい。そんなことを、ファイザはアビー王子に願えるのだろうか。ファイザは目が潤んでくるのを感じて口を閉ざした。下を向いたら涙がこぼれてしまいそうだったから、アビー王子から視線をそらすためにそっぽを向く必要があった。
ファイザが濡れた目をそらすのを見て、アビー王子は最後の覚悟を決めた。灰色にすすけたマントを翻すと腰帯の短剣に手をかける。
この時初めて、ファイザはアビー王子がマントの下に宝剣を隠し持っていたことに気付いた。あらわになった刀身が冴え冴えと閃く。
「アビー!?」
 叫びだしそうになったファイザの口をアビー王子は右手でふさいだ。左手にはよく研ぎ澄まされた短刀がある。まるで今日誰かを切り裂くことが決まっていたかのような刃だった。
 殺される!
 ファイザは恐怖のあまりに瞼をぎゅっとつむった。
 そうだ。私はアビーの仇なのだから。復讐されて当然よ。
 ファイザは覚悟を決めた。復讐とは、復讐される覚悟を持って成し遂げるものだということを、ファイザは今更理解した。故郷や家族を奪ったバース家に復讐をする。それが「正しい」ことだというなら、アビー王子がファイザを殺すこともまた「正しい」ことなのだ。
ところが、いつまで経ってもアビー王子の刃はファイザを切り裂かなかった。ファイザはゆっくりと右目だけを開いた。アビー王子はファイザを真剣に見つめたまま、左手に持った短剣の柄をファイザに向けている。
「ファイザ、僕を捕らえてムアのもとに行くんだ」
「何を言ってるの?」
 ファイザは呆然とした。たった今の今まで、アビー王子に殺されると思ったのだ。
まさか、まさか、アビーがそんなことするはずがないじゃない……。
 一瞬でもアビー王子を疑ってしまったことをファイザは恥じた。ムアを選べば自由民になれる。しかしアビー王子を選べば、今ここでムアに殺されてしまうだろう。いっそアビー王子がファイザを殺して、後に自分自身をその短剣で刺してくれるなら、ファイザは救われたかもしれない。しかしアビー王子はそうしなかった。
「ムアの狙いは僕だ。僕を差し出してすぐにここから出てほしい。急がなければカルロとイーシャもムアに見つかってしまう。カルロが僕の代わりに殺されるのだけは避けたいんだ。それに」
「嫌よ」
 ファイザは首を横に振った。
「それしかない。ファイザ、僕は前の満月の夜から考えた。そして決めたんだ。君の自由と幸福のために、僕は僕自身を君に捧げる。さあ、一刻も早くムアに僕を突き出すんだ」
 アビー王子はそう言うと、ファイザに短剣を握らせた。ファイザの両手を包むようにアビー王子は手を添えて、まっすぐにファイザを見つめる。
「頼むよ。ファイザ。もうそれしかない」

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「嘘つきたちの幸福」第3幕(後編)|青野晶 (note.com)

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