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#05 サウナ

昨今はサウナブームで、それこそ「趣味はサウナです。」という方と出会うことも増えた。「ととのった」という表現に侵された恍惚とした表情を見るたびに、サウナが苦手な僕は閉口する。

僕の家族は銭湯好きで、子供の頃は週末決まって街のスーパー銭湯に繰り出していたし、当然そこにはサウナがあった。父にいつも連れられて重い扉を開ける。有象無象にいる大人は皆、焼けた石を喉に入れたような顔をしている。狭く、暗く、とても暑い。換気扇の音と分厚い防水ガラスの中に閉じ込められたテレビでは、巨人戦が流れている。野球小僧だった僕は、そんな苦しみの箱の中でも野球を見てしまう。ピッチャーが1球放るのに、当時は平気で30秒以上かけるので、1イニング見るのに少なくとも6分はかかる。あと1球見るか、見ないか。換気扇のゴウンゴウンと鳴く声が徐々に大きくなってくる。耐えきれずに出ようとすると、背中越しに情けないとでも言いたげな大人の視線‥があるような気がして、とても恥ずかしかった。

ととのうどころか結果も見ることはできず、のぼせてしまうので良いことなしだ。
そのうちサウナへは寄り付かなくなり、よく考えたらさっさと浴場から出てしまえば涼しい休憩所でテレビが見られるので、すっかり早上がりが癖になった。

時は経ち、中学生の僕は野球部との兼部で駅伝部にいた。そこそこ早かった僕を、幼馴染が顧問に紹介したような経緯だったと思う。練習は1日30キロ走り、ぶっ飛んでしまいそうな脚を引きずってみんなで銭湯に行く。銭湯に行かない日は整骨院だった。なんかアスリート風情な生活習慣だが、僕は初回の練習後に初めての「交代浴」に遭遇してしまう。彼ら部員は顧問に言われた通り、サウナに5分入って水風呂で1分を3セット‥という今やよく見る「ととのいルーティン」をこなしていたのである。
もちろん僕もやる羽目になるのだが、暑いのも冷たいのも嫌いだったので、1セット目に「一旦身体洗うわ。」とかなんとか言って逃げた。

そして、毎日30キロ走る。そんなにも走っていると、段々と「なぜこんなにも苦しむ必要があるのか。」と元も子もないことを考え始める。ランナーズハイを感じたことがないので、その先に待つのは痛みと苦しみの連続である。
徐々に馬鹿馬鹿しさを覚えてしまっていた。

3年生に進級する頃には駅伝部は退部した。
苦しみに耐えるという意味での「フィジカルエリート」ではないことを痛感した。

苦しみの先に快感を覚える前に、その苦しみを受けることを罰だと感じてしまう。
その罰は誰が与えたものなのか。それは紛れもなく、その行動を選んだ自分なのだ。駅伝で30キロ走ろうと、サウナで交代浴しようと、気持ちよく駆け抜けることができない。それは道端に落ちている罰なのだから、敢えて拾う必要はない。そもそもこんな性格が付き纏う限り、美しい体験にはならないな。


先日街の銭湯に行くと、サウナブームよろしく男たちの行列ができていた。中を覗くと、まるで射的の景品のように、お尻が引っ付くほどの密度で並ぶ裸の連続がそこにあった。本当にこれでいいのか、と考えるのは野暮だろうか。

ととのうため、に知らない男たちと肌を擦り合わせるのが
ととのうために、裸でポツネンとした顔で行列することが

その日僕はいよいよ、サウナで「ととのう」ということがわからなくなったのだった。

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