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(長編童話)ダンボールの野良猫(二十一・一)

 (二十一・一)ドン登場
 しかし無論これですべてが終わった訳ではない。むしろこれからが正念場。なぜなら、いよいよあの男のご登場と相成るから。あの男、若き日の響子の夢をずたずたに引き裂いた、その名は勿論、Mr口谷。
 年は既に還暦を迎えた、いいお爺ちゃんの筈。なのに未だに性欲絶倫。衰えるどころか、その勢いは弥増しに増すばかり。丸で若い娘の精気を吸って、地獄の底から甦るヴァンパイアの如し。アイドル、若手女優、女子アナ等々、気に入った女は片っ端から手を付けないと治まらない。その性分は未だ健在ときているから恐ろしや。
 ノラ子をドラッグ漬けにせんとして、哀れ失敗したマンモス盛子から「ノラ子を何とかしてよ。ねえ、パパ」との懇願もあって、いよいよ本腰を入れ、ノラ子潰しに鼻息も性欲も荒々しきMr口谷なのだった。
 時は十月末。そろそろ日本レコード大賞の下馬評も囁かれ始め、先ず新人賞はノラ子でもうほぼ決まりーーっ。そんな空気が大勢を占めつつある今日この頃、六本木の響子とノラ子のマンションに一本の電話が掛かって来る。相手は、何処で番号を調べ上げたものか、Mr口谷の手下のカネゴン真坂からだった。
「おう、亜辺マリアさんだね。元気だったか?あのよう、天下のMr口谷様が、てめえとこのノラ子に会って下さるってんだ。有難く思え。ついては今夜、うちの事務所までのこのこやってきやがれ。場所は分かってんな。てめえはいいから、ノラ子ひとりで寄越せ」
「でも今夜は、ちょっと予定が」
 ノラ子を行かせたくない響子は何とか断ろうとするが、相手の方が一枚上手。
「今日がオフだってのは、ちゃんと調べ上げてんの」
「でもあの子体弱いし、Mr口谷さんのお相手でしたら、わたしが」
「だーめ、おばちゃんは間に合ってんの。つべこべ言ってねえで、分かったな。じゃそこんとこ、宜しく」
 ガチャン。

 どうしよう。響子は顔面蒼白アンド戦々恐々。わたしの大事なノラ子が、亜辺マリアみたいに潰されてしまう。
「ねえノラ子、どうしよう。あんなやつんとこなんか行ったらあんた、何されるか分かったもんじゃないわよ」
 響子の胸に、引退、の二文字がちらつく。こうなったら、先手を打って……。
「あんなやつに睨まれたら、もう芸能界じゃ生きてなんかゆけないわ。ね、あんたが傷つく前に、とっとと引退しちゃおう」
 ところがノラ子は全く意に介さず、アンド眼中になし。
「何言ってんの、ママ」
「お願いだから、わたしの言うこと聞いて。わたしたちもうたっぷり稼いだし、これなら贅沢さえしなきゃ、何とか一生食うのには困らない。ね、そうしよう?ふたりだけで、大人しく暮らそうよ」
 しかしノラ子は呆れたようにかぶりを振って、あくまでも強気のまんま。
「何言ってんの、ママ。歌はノラ子の命。だーれも、ノラ子が歌うのを邪魔することなんて、出来なーーいっ」
「でもあんたは、あの男の本当の恐ろしさを知らないから、そんなことが言えんのよ。ねえ、ここさっさと引き払って、若葉荘に帰ろう。もしそんなに歌いたいんだったら、風の丘公園で思いっ切り歌えばいいじゃない。近所の子どもたちにも、聴かせて上げたら喜ぶよ」
「でも、ママ。兎に角、ノラ子行ってみる。心配ないって。いざとなったら、窒息して死んだ振りするから」
「そんな、アホな」
 苦笑いも引きつる響子。けれどノラ子だって愚かではない。ノラ子にはノラ子なりの、覚悟あってのことだった。

 夜が訪れ、ノラ子は無防備にものこのこひとりで、Mr口谷のプロダクションを訪ねる。直ぐにMr口谷の待つ社長室に案内されて、Mr口谷のデスクの前に立つ。待ってましたと迎えるは、椅子に踏ん反り返ったMr口谷。
「これはこれはノラ子くん、よく来たね。やっぱり生で見る方が、べっぴんさんだなあ」
 べとべと脂切った顔で舌舐めずり。髪は抜け落ち、見事なまでの剥げ頭。見た目はどっかの寺の、助平住職と言ったところか。
「さあ、こっち来て、わたしの膝の上に座り給え」
 来たよ、行き成し。でもノラ子に動揺はない、至ってクール。
「用件は何ですか」
 すました顔で問い返す。む、生意気な小娘。でもそれだからこそ、我が玩具にしたい。Mr口谷の劣情は、弥が上にも燃え上がる。
「いいから、こっち来なさい。そんなに離れてちゃ、話も出来ん」
「いいえ、ここで充分。用がなければ、さっさと帰らせて頂きます」
「それが、帰れないよ。お前は今夜一晩、わたしの相手をしてもらうんだから」
「誰がお前の相手なんか、するもんか」
「何、お前だと。誰に向かって言ってやがんだ」
 流石の助平Mr口谷も顔が豹変、怒りで目が血走り、かっかかっかと丸で蛸入道。しかしそれでもノラ子は、平静を崩さない。
「お前が先にお前と言ったから、真似したまで。これでおあいこよ、分かる、お前?」
「何だと、この尼。さっきからこっちが大人しくしてりゃ」
「分かった、分かった。悪かった、そんなに興奮しないで。ところで、教えてよ。あんたが今迄何人の女の心と体を、好き勝手弄んで来たか」
「何だ、行き成り」
 ぎょろっとノラ子を睨むMr口谷に、一歩も後に引かないノラ子。澄んだ目で、Mr口谷を睨み返す。
「良し、そんなに知りたきゃ教えてやろう。いいか、良く聞け、何人の女だと。知らないね、数えたこともねえ。わたしはな、戦後から今迄それは数え切れない位の女たちの、それこそ夢と希望と憧れを思う存分思うがまま、貪り食い尽くして、ここまで大きく伸し上がって来たのさ」
 若かりし自らの青春の日々を回顧し、ニヤニヤし、更に目を潤ませるMr口谷。

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