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(長編童話)ダンボールの野良猫(二十三)

 (二十三)ノラ男の恋
 十二月。
 東京の街は月の初めより、既にクリスマスのイルミネーション一色。終戦当初には誰も夢想だにしなかった、華やかさが夜を彩っている。若者たちはお洒落に着飾り、異国かつ異宗教のお祭りをてらいもなく満喫し、恋の語らいに現を抜かす。巷にはジングルベル、赤鼻のトナカイ、諸人こぞりて、きよしこの夜、アヴェ・マリア等のクリスマスソングが流れ、教会はいかしたデートスポットと化し、幼稚園、保育園でも学芸会のお芝居にイエス生誕をやる有様。クリスマスイヴともなれば、何処の商店街でもクリスマスケーキが売られ、子どもたちはクリスマスプレゼントを買って交換し合う。
 そんなクリスマスの東京の夜の片隅、ここ品川駅前のカフェ・ルノアールの窓辺では、珍しくノラ子とノラ男が肩並べ座っている。人目を忍んでか無口なふたりは共にサングラスを掛け、目映いクリスマスのイルミネーションをじっと眺めていた。例年この時期、東京に雪は殆ど降らず、本年もまた然り。
「ぼくは決心したよ」
 ほろ苦い珈琲を啜りながら、ノラ男が沈黙を破る。
「何を」
 ぼんやりと問うノラ子に、悲しげなノラ男の答えが続く。
「ぼくは絶望してしまったんだ。だから、筆を折る」
「えっ?何で、また」
 突然のことに、ノラ子はびっくり。ノラ男の絶望は、彼の口癖。だからいい加減に聞いていれば良い。しかし、筆を折る、とまで言及したのは、これが初めて。
「ぼくは甘かったんだ。結局、詩で世界を変えようなんて、初めから出来っこなかったんだから」
「でも、ほんとにそうかな?」
「そうだよ。だって何千年もの間ずっとこの世界は、悪によって支配されて来たんだから」
「悪」
「そっ。例えば日本の芸能界がヤクザとか、広告代理店とか、Mr口谷みたいな悪徳プロダクションによって、牛耳られているみたいにね」
「成る程」
「その悪を撲滅しない限り、世界は到底良くなんかならない。詩なんか、何の役にも立ちゃしないんだよ。そうだろ?」
「でっも」
 何か言い返そうとして、ノラ子はけれど言葉が見付からず、ぼんやりと窓に目をやる。そこにはきらきらと眩しいクリスマスのイルミネーションが映っていて、それが東京の夜空に微かに瞬く星の光を覆い隠していた。ノラ男は、続けた。

「この世界を動かしているのは、夢でも歌でもない。彼らの支配ツールである、お金とドラッグだったんだよ」
「お金とドラッグ」
「そういうこと。きみの大好物の鯖の味噌煮だって、お金がなきゃ手に入らないだろ」
「確かにそうね」
 頷くノラ子に頷き返し、ノラ男はため息を零す。
「あーあ。人間になんか、生まれて来なきゃ良かったんだ」
「えっ。じゃ何に生まれて来れば、良かったの?」
「そうだね。例えば、野良猫」
 野良猫。どきっとして、ノラ子はじっとノラ男の目を見詰めた。その時ノラ男の瞳の中に、何処か見覚えのある風景が映って消えた。何処かの原っぱに降る雪が、見えた気がした。
 しかしノラ男が筆を断つ本当の理由は、この世に対する絶望などではなかった。ノラ子も薄々は気付いていたことだけど、実はノラ男は恋に落ちていた。お相手は、じゃ、誰?それは何と、二十五歳年上の女、響子、その人だったのである。
 ふたりはノラ子の護衛の為に年中行動を共にするうち、いつしか意識し合うようになり、遂には年の差を越えて付き合うに至った。ノラ男は響子との愛に生きることを選択し、生き甲斐ではあるが同時に自らを死の危険へと晒す、言わば自殺行為とも呼ぶべき、詩作を断腸の思いで捨て去ったという訳。
「でも、ノラ子は諦めない。歌でこの世界を変えてみせる。きみの言う悪さえも感化させ、お金と薬の鎖から、人間を解放するの」
 ノラ子の歌に賭ける情熱は変わらない。ノラ子の果てしなき夢、願いは、今もしぼむことなく熱く熱く燃えたぎっている。
「微力ながら、これからも出来ることは、協力させてもらうよ」
「ありがとう。それでこそ、ノラ子の同志。わたしたち、これからも同志だね」
 ひたむきなノラ子の純粋な心に打たれ、ノラ男は不覚にも目に涙を滲ませる。手と手を固く握り合い、クリスマスの夜景を見詰める若きふたりであった。
 その後響子とノラ男は、年の差もあり今更結婚式など柄にもないからと挙げず、ただひっそりと入籍を済ませ夫婦となった。ノラ男が婿養子として響子の籍に入り、夢野ノラ男を名乗った。でもふたりはノラ子を守る為、変わらずノラ子と行動を共にした。

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