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(長編童話)ダンボールの野良猫(四)

 (四)ノラ子
 響子が野良猫の原っぱにのこのこやって来ると、あるある薄汚れた一個のダンボール箱。恐る恐る近付いて上から覗くと、いるいる、野良猫一匹。
 野良猫は響子詰まり人の気配にびくっと目を覚まし、誰だにゃと顔を上げた。同時に逃げの体勢にも入っていたが、目に入ったのは見覚えのある顔。
「やだ、そんな恐い顔しないで。覚えてない、わたし。約束した通り、ご馳走持って来て上げたんだから、ほら」
 見ると大好物の鯖、しかも味噌煮ではないか。くんくんすると、ふにゃーっといいにおいが漂って来る。ぐーっとお腹も鳴いて、そういやあ、近頃まともなもん、食ってなかったっけにゃーっ。こいつはたまらんにゃーっ。野良猫はひょいっとダンボールから飛び出し、ごろにゃんと響子の足元にすりすり。
「くすぐったいよ。いいから、召し上がれ」
 響子が地面に皿を置くや、野良猫としてのプライドもハングリー精神もかなぐり捨て、思いっ切りぱくつく野良猫。むしゃむしゃ、むしゃあ。ああ美味しい、こりゃたまらにゃーい。わたし、しあわせ。
「どう、美味しい。よっぽどお腹空いてたのね、かわいそうに。ほら、そんなにがつがつしないで、ゆっくり食べて。誰も取ったりしないから。ね、ノーラちゃん」
 しかし見ると野良猫はメス。
「じゃノーラちゃんじゃなくて、ノラ子ね。ノーラ子」
 こうして響子は、野良猫をノラ子と命名。野良猫ノラ子はさっさと食事を済ませ、ふーっ、お腹一杯。その後はひたすら響子に、じゃれついてゆくノラ子だった。ごろごろ、ごろにゃん、お姉さん、大好き。ごろごろ、ごろごろ、喉の響きも心地良い。響子もそれに応えて上機嫌。
「お前もひとりぼっち、わたしもひとりぼっち。寂しがりや同士、仲良くしようね、ノラ子」
 野良猫は幸薄い人が分かる。野良猫は幸の薄い人に、そしてやさしく接する習性を持っている。だからそんな野良猫ノラ子との交流によって、響子の傷ついた心は慰められ、響子はいつもノラ子と一緒にいたいと願う。本当なら飼って上げたい、と。だけど若葉荘は勿論ペット禁止。代わりに足繁く原っぱに通う響子だった。

 季節は夏。
 原っぱでノラ子と共に野の花や虫たちを眺め、草のにおいを嗅ぎ、木陰で風に吹かれ、蝉の声に耳を傾けているうち、響子の心も段々と晴れてゆく。気持ち良さそうに大欠伸、目を瞑るノラ子の頭を撫でながら、子守唄代わりにと、遂に響子の唇にあの日以来忘れていた歌が甦る。曲は『夏の思い出』。あのMr口谷に襲われて以来、すっかり忘却の彼方に置き去りにして来たあの歌。響子は感慨に浸る。空がやけに青くって、目に沁みるわね。
 口遊みながらつい目頭が熱くなる。滴り落ちる響子の涙に気付いて、ノラ子が顔を上げ、ぺろぺろぺろっと響子の指を舐める。
「あっ、ごめん。子守唄の筈が起こしちゃったわね。この歌には、いろんな思い出がたくさん詰まっているもんだから……」
 こうして心の支えだった歌と歌うことを思い出した響子は以後どんどん歌い、そして元気になっていった。
 しかし歌は響子にばかりでなく、実はノラ子にも影響を与えていたのである。響子の歌を聴く時、ノラ子はそれは気持ち良さそうに耳を傾けた。
「あんたも歌が好きなのね」
 歌い掛ける響子に、ノラ子はみゃーっと切なげに鳴いて答えた。ではノラ子に与えた歌による影響とは、何だったのか。それは、歌うことへの憧れである。
 歌いたい……。
 ノラ子の鳴き声は、そう叫んでいた。ノラ子も、歌いたくてしょうがない。初めて響子の歌を耳にした時、ノラ子の胸は激しく高鳴り、その衝撃と感動に打ち震えずにはいられなかった。どきどき、どきどきっ……。わたしも歌いたい。だって草も木も花も鳥も風も大地も、みんな歌ってる。雨も雪も遠い夜空の星たちだって歌っているから。ねえ、わたしにも歌わせて。誰か、わたしに歌い方を教えて、にゃーーっ……。

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