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(長編童話)ダンボールの野良猫(八)

 (八)野良猫死す
 ノラ男がいなくなり、ノラ子は久し振りに原っぱの中でひとりぼっち。一匹だけだと、寒さもまた格別身に沁みて来るようでならない。響子はどうしているかと言えば、年末年始はお菓子工場にしてみれば書き入れ時。響子もフル稼働で働かされ、正月明けまでは休めそうにない。体も疲労困憊でノラ子に会いにゆきたくても行けず、心の中でごめんねと詫びるので精一杯だった。
 だから今ノラ子の友だちは、ダンボールだけ。昼間っから一匹侘しく、ダンボールに寝そべり、うずくまるノラ子。響子、ノラ男との楽しい思い出が走馬灯のように浮かんでは消えてゆく。響子さん、どうしているのかな。体こわしてなきゃ良いけど。それにしてもノラ男さんは、本当に何処行っちゃったんだろ。もしかして、もう人間に生まれ変わっちゃったとか。だとしたら、天の神様って意地悪ね、ノラ男さんの祈りばっかり聞き届けるなんて。わたしだって一緒に一生懸命祈ったのに。ふん、まったくもう。
 でもわたし、正直まだ決心がつかない。人間になんかなって、本当に幸せなのかなあ。それに突然わたしがいなくなったりしたら、響子さん寂しがるだろうし心配もする筈。でも。でも、わたし。やっぱり人間になって、思いっ切り歌ってみたい。想像するだけでわくわくどきどきして来るし、それになんか胸が熱くなって、うーっ、やばい。涙、零れそう。
 そうだ。それに響子さんにだって、人間になって会いに行けばいいんだ。そうだ、そうだ、じゃ、問題解決。なーんて、ノラ子が一匹ぼっちではしゃいでいると、ダンボールがくすくすっと笑った気がした。でも実はヒュルヒュルッと、ダンボールは木枯らしに吹かれただけのこと。
 ぐーぐーとお腹が鳴いて、あーあ、腹減った。正月まであと僅か。よし久し振りに、商店街まで足を延ばしちゃえ。ひょいっとジャンプ、ノラ子はダンボールから飛び出した。
 板前のあんちゃんに追い掛けられながらも、何とかマグロのたたきにありついたノラ子はお腹一杯。原っぱに帰って来ると、ふっわーっ、ねっむーい。冬の銀河に見守られながら、冷たいダンボールの底にうずくまり、眠りに落ちるノラ子だった。

 原っぱのまん中に、ダンボールの箱がひとつ。時刻は真夜中。ダンボールの底にノラ子がうずくまり眠っている。けれどそれに気付く者はなく、ただ誰もみな空っぽのダンボールが転がっていると思うだけ。
 原っぱはノラ子の縄張り、ダンボールはノラ子の住み家。ダンボールの中から耳を澄ましてみても、辺りに人の声などある筈もなく、ただ木枯らしの音がするばかり。
 寒さに目を覚ましたノラ子の、夜更けのダンボールに染み付いたノラ子の涙のにおいを誰も知らない。ダンボールに染み付いたノラ子の夢のかけらを、分かち合う者も一人としていない。知っているのはダンボールだけ。その掛け替えのないダンボールに肌を寄せ、再び眠りに就くノラ子。
 この星空と凍りつく冬の原っぱでノラ子が見る夢は、待ち遠しい春のにおいのする夢。そして夜が明けたらまた、生きてゆくための戦いがはじまるノラ子。

 そして大晦日。
 日暮れから降り出した雪が積もり始めた原っぱのまん中に、ダンボールの箱がひとつ。時刻は真夜中。雪はまだ降り止まず、吹き荒れる木枯らしの中、それでもダンボールが辛うじて飛ばされないのは、ダンボールの底にノラ子がうずくまり眠っているから。
 今宵の寒さはこの冬一番の厳しさで、堪らずノラ子は夢から覚める。ダンボールの中から耳を澄ましてみても、ただ雪の音の聴こえるばかり。ダンボールに肌を寄せ、ノラ子は再び眠りに就こうとする。ところが突然の天変地異が襲い掛かった。強風である。原っぱを駆け抜ける、今夜最大風速の風。
 うわあーーーっ。
 強風は軽々とノラ子のダンボールを持ち上げ、ノラ子を乗せたまま、ダンボールは空中へと舞い上がった。クルクルと回転するダンボールから、振り落とされまいとして無我夢中。ノラ子は懸命にダンボールにしがみ付くけれど、ああ無情。ダンボールの肌に爪跡だけを残して、まっ逆さま。しかしそこは野良猫のノラ子。直ぐに体勢を整えるや、雪の地面に着地する。はい、お見事。
 ふーっ、さむーーいっ。
 見上げれば、天高くダンボールは浮いたまま、風に流されあっという間に遠くへ。やがて米粒程の大きさとなって、夜空の彼方へさようなら。

 あーあ、いっちゃった。わたしの隠れ家、わたしの大事なお友だち、ダンボールさん。
 ダンボールの消えた方角をいつまでも見ていたけれど、もう戻って来そうにはない。ノラ子はがっくりと肩を落とす。空は相変わらず一面灰色に覆われ、地面は積もった雪が固まって凍り付き、聴こえるのは木枯らしの中に震える雪の音ばかり。今世界中で、一番ひとりぼっちのノラ子である。
 ヘックシュン。
 そんなノラ子にしかし、冬は容赦なく牙を剥く。寒さ、吹雪から守ってくれたダンボールはもういない。ぶるぶるぶるっ……。ノラ子の吐く息は雪にも負けない白さで、大気中へと吸い込まれてゆく。あたかもか弱き命の精気を吸い取らんとするが如く。
 ヘックシュンとぶるぶるぶるっ。全身悪寒の塊りと化したノラ子は意識朦朧、音も立てず雪の地面に倒れ横たわる。ふーふーはーはー、ふーふーはーはー……。ノラ子の発する高熱が、僅かばかり周囲の雪を融かす。がそれにもまして、降り頻る雪。起き上がろうとしても、もう腕も足も言うことを聞かない。死の予感、眠気が襲う。懸命に睡魔を払うも、最早虚しい抵抗。ノラ子は死の眠りへと落ちてゆく意識の中で、せめて、と願う。せめてもう一度、響子さんに会いたい……。
 けれど街の舗道はすっかり雪に覆われ、響子のアパート若葉荘までの道のりは険しい。が、それ以前に野良猫故に、アパートの場所すら分からない。
 どきどき、どきどきっ……。ノラ子は自らの死期を悟る。せめてもう一度、響子さんに会いたかったにゃあ。どきどき、どきどきっ……。
 そして力尽き、まっ白き雪の原っぱのまん中で、とうとうノラ子の命の炎は儚くも燃え尽きたのであった。街には尚雪が降り続き、夜の明ける頃、ノラ子の遺体はすっぽりと白い雪に埋もれてしまう。
 数日後、雪が融けた原っぱに、けれど不思議にもノラ子の亡骸はなかった。このことからも野良猫が人に死んだ姿を見せない、と言う伝説は本当のことらしい。

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