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時計の針が止まる時


私の祖父(母方)

その数日前、私は腕時計を購入した。とても気に入り仕事中もちょっと眺めたりしていた。

2004年9月24日、90歳で祖父は永眠した。
大腿骨骨折により大嫌いだった病院に入院し、その日お見舞いに行った私の顔をみて一言
「お父さんどうした?」
と心配そうに呟いた。認知症が始まっていた。次の日からはもう私が孫ということも解らなくなった。

小学2年の時に両親が離婚し、それから私には父親がいない。会うこともなかった。
祖父が私を認識できていた最後に発したその言葉は、祖父がずっと心配していたことだ。

祖父は日頃から
「父親がいないから、人よりいろいろできないといけない。父親がいないから、人よりできてやっとまともに見られるんだ」
と私に言っていた。
祖父の私への愛ゆえに出たこの言葉だが、意識的にも無意識的にも、わりと長い間私の心に居続けた。

祖父の右腰には、穴が2つあいている。道を歩いていたら、空襲になったそうだ。
前からおばあさんと息子さんらしき人が歩いて来て「千鳥ヶ淵はどっちですか」と道を聞かれたそうだ。
自分が来た方を指して「あっちだ」と応え、二人とすれ違って数秒後、背後に焼夷弾が落ち、祖父の背中には焼夷弾の破片が2つめり込んだ。

破片が刺さったまま帰宅し祖母が破片を取り出した。次の日、痛みを押して揺れる電車に乗り病院に行ったという。
もし、爆弾が投下された時間が数十秒ずれていたら祖父はいない。ということは私も存在しないということになる。

学校で戦争の話を聞いてくる宿題が出た。その時祖父は、「空襲警報がなると部屋の電球を黒い布で覆って明かりが外に漏れないようにしたなあ」
とだけ話した。背中の穴の話は祖母や母から聞いたものだ。

オリエンタルという会社で、写真現像の研究をしていた祖父は、戦争の記録を写真で残すために徴兵を免除されたらしい。けれど祖父がとった戦時中の写真を私は1枚も見たことがない。

祖父の若い頃の写真をみるとイケメンである。かの有名なあべさださんからお財布をもらったことがあるみたいなんだよ、というエピソードを祖母はちょっと楽しそうに話す。

祖父母、母、私の四人暮らしであったが、祖父はしつけに厳しく私に手が飛んできたこともあり、母は私を連れて実家を出た。
私達は実家の近くには住んでいて行ききもあったが、祖父と母の距離は縮まらなかった。

祖父が、母と母の妹を連れて潮干狩りに行ったとか、銭湯に行ったとか子煩悩だったはなしを祖母から聞いたり、セピア色の写真でその事実を再確認すると胸が痛んだ。

厳格で怖かったが、今祖父との記憶をたぐる時には、同居していた時にドンジャラをしたり、花札を教えてもらったり、散歩に行ったりと楽しい思い出の方が自然と優先される。

お風呂に入る時に祖父が歌っていた、月の砂漠などの歌。私がわりと唱歌を口ずさめるのはテレビより祖父の影響だ。

祖父が骨折で入院した期間は、2ヶ月位。
食事、排泄、入浴、すべて全介助の寝たきりになった祖父を、高齢の祖母では介護できず私と母の家に帰ってきた。
母は仕事を辞めた。

そんな祖父は退院から半年後、母の介護負担を察したように永眠する。

厳格で一見孤独そうに見えた祖父は、認知症になると威厳はあったが険がなくなったように感じ、母との溝がなくなったように私には見えた。入浴介助に来てくださっていたヘルパーさんたちには、毎回愛嬌があって人気者だった。

旅立ちの少し前、夜雨戸を閉めた後で祖父は「人が来たからその窓を開けてくれ」と言うようになった。
「(やだ~お迎え?まだ早いから)帰ってもらって~」と返していた母。
お迎えって本当にあるのではないかと思うエピソードだ。

お通夜の前日、母と私は
「おじいちゃんとさ、亡くなってもここにいるよ!って時は、台所の果物でも床に落とすとか、なんか合図決めとけば良かったね~」と話していた。

火葬が終わった日だった。
家に戻ると腕時計が止まっていた。まだ新しいのに。何故かアナログ時計の横にある、時間を合わせるつまみが持ち上がって止まっていた。つまみは何かの弾みで簡単に上がるものなのだろうか?

はっとした。
死亡時刻に数分ずれていたが近かった。

その後、さらにはっとした。

祖父の死亡時刻については、救急隊の「病院に着いた時は呼吸があった」という証言とDr の「私が看た時には亡くなっていた」という食い違いから推定で書かれていたからだ。

もしかしたら、おじいちゃん?

と、

想いたい。のだ。

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晩年
「死にたくねぇなあ」
と呟いた祖父を知っている。それを聞いた時私は凄く悲しかった。今は少し違う。
祖父の本当の気持ちはわからない。ただあの時、早く逝きたいとは思わなかったのだ。

好きだった写真現像の研究の仕事の中で派閥に揉まれ、祖父は退職し自由な鏡職人になった。
小さいころからうちには祖父の作った鏡がたくさんあった。
今日も私は寝室にあるその姿見の前で服を決め、リビングにあるそのスタンドミラーの前で化粧をする。

いろんな想いをごちゃ混ぜに抱えた時期もあったけれど今想うのはやっぱり、おじいちゃんありがとう。だ。