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自分決め

前職を辞めた理由、まあいろいろあるのだけど、「いなくなってしまった自分に耐えられなくなった」というのも大きな1つだ。

労働が生活の大半を占めるけど、それが自分の本分と思えない。

お金はたまるけど、それを費やす使命も趣味もない。

「休みの日何してるの?」に答えられない。

「言葉のできない外国人」以上に自分を説明するものがない。

当たり前の社会に適合できていない自分を、目的もなく国を渡り自業自得にあえいでいる自分を、笑ってもらって構わない。

とにかく、立ち止まらせてくれ。そんな気持ちで一人になった。


一人になって、考えた。私は何をしていたら満足なのか。生きるのも悪くないと思わせてくれるものは何か。

そんなものなかった。少なくとも、何の条件もなしに人生かけて愛せるものなど、私にはなさそうだった。

ちょこちょこ好きなものはあっても、寝食忘れるなんてありえない。読書は好き。アイドルも好き。だけど家で寝ていたい。

考えてみれば子供のころから、そんな感じで熱中とは無縁に過ごしてきた気がする。いつか「生きがい」が白馬に乗ってやってきて、私の人生決まるのかな、くらいに思っていた。

もうさすがに、そんなこと期待できない。怠惰を生まれ持ち、懐疑心を身につけた私という人間は、きっと何に対しても熱狂なんてできない。


しかし、生きなくてはいけない。生活のためには稼がねばならないし、稼ぐためにはなんらかの形で心身を健やかに保たねばならない。仕事に労働以上の価値を見いだすか、仕事の外にそれなりの気晴らしを持つかしないと、私は健やかさを損ねて、きっとまた逃げてしまう。最悪の場合、生きることそのものから。


全力で愛せるものなんてない。けど生きなきゃいけない。そこそこの愛で自分を保ちながら。

そこまで考えて、やっと気づいた。そうか、決めなければいけないのか。何をして、何を愛して生きていくのか。手持ちの「そこそこの愛」の中から。

「自分探し」という言葉、なんとなく馬鹿にされてる印象があって、自分も馬鹿にされたくないから使わないようにしていたけど、やっと概念としてのおかしさが腑に落ちた。自分は探すものでなく、決めるものだ。

こんなこと、普通なら大学3年生くらいまでに気づいて、みんな行動しているんだろう。すごいなみんな。


そうか決めなきゃいけないのか、と分かったは良いものの、まだまだ自分が空っぽすぎて、選び取るために手持ちの愛と向き合うのはちょっと怖い。

だけど、「ちょっとだけ好きなもの」に時間とお金を費やすことを、恐れるのはもうやめよう、と思えている。

同じものを私よりずっと愛している人がごまんといるのは分かっている。だけどそのことにしり込みしてたらいつまでたっても私は何もできない。足りない愛を理性や苦痛で補って、こんな人間も生きていくしかないんだから。

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