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Feel Special

しんどくなると、人に話を聞いてほしくなる。

何人か、信頼できる人の顔が浮かぶ。

だけど大体、連絡をせずに終わる。

まずなんて言って話を始めればいいのかわからない。「今度ちょっと時間ある?」なんかで始めようとすると、弱った自分との対峙なんかにこの人の時間をいただこうとしているという事を思い出して、申し訳なさにすべての手が引っ込む。

運よく誰かが私と話をする時間を作ってくれたとしても、その人にとって何の価値もない私のヤミヤミ話に場のすべてを費やすわけにはいかない。世間話から始まれば、相手の近況だって聞くべきだし、小さなきっかけから私の宇宙に引きずり込むなんてみっともないこともしたくないし、とにかく言いたいことを切り出せない。

そしてたちが悪いのが、この人と別れ一人になった私は悲劇のヒロインに舞い戻り、「あの人は私の話を聞いてくれなかった!」なんて他責を始めかねないのだ。これがどれだけ愚かなことか自覚はしているけど、自覚しつつこの欲求不満をなくすことはできず、自分って愚かだなあと自己否定が加速したりするのだ。


そして最近実践しているのが、「話したいことは自分に話そう」「かけてほしい言葉は自分でかけよう」である。

「人に話すと考えが整理される」なんていうのはもう、独り言でいいんだ。文章でいいんだ。それなら場の空気とか、他人の時間なんて気にせず、話したいことだけを話したいリズムで凝縮させることができる。

「かけてほしい言葉」を求めて、人と話しに行ってしまうこともある。しかしそれで、その言葉をばっちり得られるとは限らない。

「かけてほしい言葉」なんかが分かってるなら、自分でかければいい。それならうまいことその言葉を得られず、欲求不満になってしまうなんてこともない。

ただ、かけてほしい言葉があるなんていうのはかなり弱ってるときで、自分のことを嫌いになっているときに嫌いな自分から言葉をかけられても説得力がない。なのでこういうときは、昔他人からかけてもらった言葉を思い出すようにしている。

私、ダメッダメだけど。でも尊敬するまともな人が、こんな風に褒めてくれたことがあった。今はその人に同意して自分を褒めるほどの元気はないけど、まあ、他人様から見れば良いところもあるのかもしれないよ、私。

その人のその発言は軽い気持ちによるもので、言った本人はもう忘れているかもしれない。その時はそう思ってくれたけど、今の私には同じ言葉をかけてはくれないかもしれない。

そう思うとリアルタイムの言葉ほど信憑性はないかもしれないけど、だからこそ自分で好きに編集できるのが便利だ。この言葉を求めに今のその人に会いに行ったら、小さな失望をして帰ってくることになるかもしれない。自分なりにつぎはぎした言葉を本人にさらしたら、そんなつもりはなかったと気味悪がられるかもしれない。だから自分の中だけで、大切に大切に。


そういう言葉で弱った自分の機嫌を取ったら、今度はもう少し前を向く。

ちゃんとしていたら、またありがたい言葉をもらえるかもしれない。

元気な時に他人から言葉をもらっておけば、弱った時に他人をあてにしなくて済む。

他人からの刺激にやられてしまうことも多々ある毎日だけど、余裕のある時には他人のいる世界でしっかり関係していよう…と思う。


最後の最後に、話の主題を折りますが。

「自分の話は自分で聞く」「かけたい言葉は自分でかける」なんて、強がりですとも。何かあった時にすぐに話せる人がいる人が羨ましいよ。

だけど「親友」や「恋人」や「家族」がいるからって解決される問題でもないでしょ?そういう肩書の人に思い通りの言葉を求めるって健全だと思えないし、ましてやそのためだけに新たにそういう肩書の人を作るわけにもいかない。

目的として尊重し合う関係の副産物としてありがたい言葉や話への相槌があるわけであって、他人をそういう会話の手段として扱うわけにはいかない。

長い時間の末の深い関係性の構築にひそかに憧れつつ、私はまんじりとして言葉の反芻を続ける覚悟である。

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