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初夏の唐丹2022年

以前、震災復興ということで西一治と唐丹を訪れていたころは、調査報告の意味もあって、フェースブックのノートに書いていた。note.comになってからは、2年前の秋に書いたきりだ。それもそのはず、コロナ感染対応となると、潮見第に来ても、静かにしていることになってしまっていた面もある。
今回は、9泊10日で5月の連休をフルに使って礼子とやって来た。出かける前に、上村康志より電話で兄の征也(ゆっこさん)が26日に亡くなり、5月1日が葬儀と連絡が入った。征也氏が潮見第の土地を売ってくれたからこそ、今まで活動できているのだ。81歳で、車を運転していて交通事故がもとの多臓器不全だという。康志さんも奥様の昭子さんを亡くしたばかり、つらいのが重なる。
29日は10時出発、いつものように三陸道を志津川ICで降りて、南三陸さんさん商店街で蛸を買う。震災の写真展も覗いた。入場料は300円が100円になっていた。そして寿司屋の「くう海」に5時に入ってにぎりを食す。値段での表示は2000円を注文。美味しく食べたあとは、雪交じりの中、残り100㎞を潮見第へ。外は2℃。幸い室内は12℃ほどあるものの、寒いくて、薪ストーブに火を入れる。
翌30日は、朝、康志さんが車で葬祭場へ連れて行ってくれる。ホテル・シーガイア・マリンの入り口。すでに花に囲まれた祭壇の前にご遺体が安置。お線香をあげ、供花の仲間に加えてもらう。近所の木村真㐂子さん、尾崎さんの奥さんがお昼も用意してくれていて、ご馳走になる。夕方も来てと言われていたけど、孫の颯楽と彩羽のバレー発表会がliveであったので、終わってから伺う。板乗亘さんを紹介される。桜トンネルの上の土地の西隣、川目の土地の下側の土地の所有者。上村さんの母(7年前に106歳で逝去)の実家の土地だったということで話がつながる。
1日は、まず出棺というので、その準備の集まりに9時前に葬祭場へ。礼子は留守番。お別れの集まりはお棺の上に載せてあった花布団を中に入れ、顔の周りには、皆で花を埋める。そして、10円玉と100円玉をみんなから集め、六文銭6枚のコピーとともに袋に入れて、お小遣いとして持たせる。三途の川を渡るときにお地蔵さんが6人いて、六文銭を1枚ずつ渡すのだそうだ。冷たい小雨が降ってきた。
10時出棺。国道を少しもどったすぐのところに、立派な釜石斎場があってそこで火葬にする。コロナ禍で最近は1日1人ということらしい。1時間半待機ということで、尾形さん(征也さんより4か月若い)からは、サハリン生まれで函館にしばらく居た話や、尾形家に養子に来たとか、上村家と遠い親戚に当たるなど、いろいろ聴いた。木村隆一(りょうぼさん)は、「陽気に楽しく行きたいのにお茶じゃね」と。皆、車で来てるから飲むわけにいかない。皆で拾ったお骨を持って、また葬儀場に戻り、おにぎりなど順に食べる。
葬儀は1時から。盛岩寺の住職と副住職の二人の読経。こちら曹洞宗の式では、親族が銅鑼と太鼓を叩いて、副住職の鐘に合わせる。般若心経もあり。葬儀の後、49日ならびに百か日法要。帰りには、香典返しに立派なお弁当も二ついただいて、潮見第で2度目のお昼を、お酒も頂きながら征也さんを偲ぶ。
2日、午前中に、馬込から持って来た、植物を植える場所に下見に、桜トンネルの上の土地を歩く。ヤマツヅジがけっこう花を咲かせている。康志さんお弁当2つ持って来てくれて、「納骨に来るかと思って用意しておいたから」と。申し訳ないがありがたく頂く。午後は、道路の上側の、以前ハマナスを植えた近くに、シャクナゲやアカバガシワを、下側の元畑地だったところに、ハマナスと桑の苗やタイムを植える。
3日は、前日に植えたハマナスを守るため、木杭を打って囲いを作った。急傾斜の4mほど下には、水の音が聞こえていたので、ロープつたいに降りてみて、岩の間からチョロチョロ流れているのを確認した。午後は、釜石で買い物(イオンスーパー)。寝室にしている部屋のカーテンの吊り方を改善。連休中に書き上げようと思っていた、Structure7月号の原稿「旅で出会う建築の面白さ」4000字ほど書き進める。
4日は、観光もと思い立ち、唐桑半島を訪ねる。51年前に母と東京から車でやって来た三陸海岸のスタート地点だ。なんと、三陸道から唐桑へ向かう出口は、仙台方面からは気仙中央の後2か所もあるのに、釜石からだと、陸前高田で降りないと気仙中央まで降りられない。10㎞往復で30分余計に走らされた。ビジターセンターは、気仙沼の3D震災映像など。津波体験館のみ有料というが、入る気にはならなかった。51年前に国民宿舎に泊まったというと、つい昨年解体されたのだという。「宮城・気仙オルレ」という名前でトレイルが整備されている。キャンバスを持って油絵も描いた記憶があるのだが、どこの岩場だったか定かではない。ただ、海と波と岩の色は変わらない。ドラマチックな岩場の展開を楽しみながら歩き、最後は高村光太郎の歌碑も見て小1時間。帰路、お昼はと探すと、半島のちょうど真ん中あたりに寿司屋が2軒あり、よさそうな「わかば鮨」に入る。奮発して3300円を注文。さすがに、アワビやホタテもおいしかった。帰りは、60㎞1時間で潮見第に着いた。
夕方、低地のグラウンドに降りて、遊具の整備された広場を眺める。午前中は子供たちの声も聞こえたが、女性が一人ブランコにのってスマホを見ているだけで静か。海の広場計画案など作って市に提案したりしたが、整備されたのは、今のところちっぽけな児童公園ひとつ。
5日の午前中は、礼子と散歩で桜峠を越えて菅原神社まで。途中、本郷側の斜面では、ワラビを摘んでいるご夫婦に会い、我々も、潮風トレイルの脇に出ているワラビを摘む。ネットであく抜きの方法を調べて、薪ストーブの灰を使って処理する。
午後は、ハンモックで日本の歴史の南北朝を読む。尊氏も頼朝に倣うと思いながら、息子たちや後醍醐天皇との対応は、いろいろ大変だったことが改めて教えられる。
6日は平日ということで、以前、三菱UFJ技術育成財団の助成一覧で見つけた釜石の中小企業を訪ねた。いきなりの方がいいかと電話もせずに住所でさがす。小佐野駅近くの山裾。唐丹小白浜まちづくりセンターの名刺を出して、会社の説明を求めると、気持ちよく受けてくれて、社長と専務から、光触媒の溶射技術開発について1時間ほど伺えた。大槌漁協とは加工場の空気清浄設備導入をしたけど津波でダメになってしまった話、遠野の牛舎では生まれたばかりの子牛に良い影響が確認とか、最近では浜千鳥の麹室の雑菌を減らすのに効果が確認されたなど。もともとは富士製鉄の子会社だったという釜石電機製作所であるが、独自の技術開発で頑張っているのは、応援したくなる。
午後、Structureの原稿、メールで提出。
7日は、もう最終日。なんだか寂しくもある。上村家の墓にお線香をあげに行く。見上げると、すぐ上に「藤巻家」があって、墓碑銘を見ると、なんと昭和52年2月7日徳三郎65才とある。51年前に泊めてもらって世話になった藤巻徳三郎氏のお参りもできたということ。これも巡り合わせ。ただ、報告したい母も、もういない。
昼食後のコーヒーにと、釜石大観音商店街のsofo cafeに行ってみた。けっこう若い人も歩いていたり、カフェの中も8割がた客が居たりして、美味しいケーキとコーヒーを味わえた。商店街の建物は、二階の窓の付け方が統一されているのに気づいた。出来た頃はそれなりにしゃれた設計になっていたのかもと思ったりする。一度、全滅した商店街であるが、sofo cafeができたことで少しずつ賑わいが戻るかも。
明日は朝から片付け掃除で、なるべく早く出発することになる。初夏の唐丹の自然も味わえた。人とのつながりも増した。

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