「3.11から考える『この国のかたち』東北学を再建する」(赤坂憲雄著)に思う

三陸復興のためにも赤坂憲雄の東北学を踏まえておく必要があると思って取り上げた。
実際に執筆されたのは、震災直後から1年経過したあたりということから、改めて震災そのもののインパクトの大きさを思い起こした。そして、福島の問題と三陸の問題が、基本的なところで繋がりながら、やはりかなり異質であることも感じてしまう。ただ、それまでの東北学の蓄積、柳田国男の遠野物語を始めとする民俗の流れが復興の根底にあることは十分に伝わった。そして、頻繁に語られる縄文文化における自然とのかかわりも。東大で2000年に社会文化環境学を始めたとき、縄文時代を知ることが現代の社会文化に繋がっていることを辻誠一郎からのメッセージとして聞いていたことを思い出す。
前半は「新章東北学」と題して、2011年6月から2012年3月までの間、考えたことの断章として綴られている。
「これからは、東北学を実践的に組織していくあらたなステージに入ったのだと感じています。」(p.25)と、これは、鶴見和子との対談からの宿題に対する決意表明。「東北はケガレや差別の意識の希薄な土地柄なのです。」(p.41)との観察は、関西圏や首都圏よりも、前へ進むことに対しての肯定的な可能性を示すもの。
そして「弱き人々こそを、あらかじめもっと安全な場所に、といったモラルが必要なのかもしれません。建築の思想も変わるはずです。災害を想定してコミュニティが創られる時代が始まったのです。」(p.66)は、多少なりとも楽観に過ぎる気もするが、そう言った思想を伝えなくてはいけない。
50年後に訪れる「八千万人の日本列島」に「漁業であれ、農業であれ、林業であれ、・・・新しい入会のかたちをデザインできるかもしれない。」と、前半の最後で語られる。これは、また後半の最後でも強調されている。五十嵐敬喜の「土地は誰のものか」と同じ論調である。東北の震災復興からと、大都市の土地問題からとで、同じ結論が導かれるのは、日本の将来にとって、それがいかに本質的な問題かということだ。絶対的私有権を強調することが社会を歪ませる。ただ、それを変える政治は、容易ではない。
後半は、「東北学第二章への道」と題して、Ⅰ. 野蒜~松島湾、Ⅱ. 宮古・山田・大槌・田ノ浜、Ⅲ. 南三陸の鹿踊り、Ⅳ. 南相馬小高を取り上げて書いている。
野蒜築港の歴史を紐解いて、「この徹底して「上」から、ほとんど場当たり的に降ろされていった大きな公共事業は、周辺地域につかの間の復興バブルをまき散らした挙句に、何気なく事業半ばにして放棄されたものだった。」(p.125)内発的発展を意識しての記述であり、防潮堤や盛り土造成が、本当に必要かと問うているのだ。現実には、すでに大半の防潮堤や造成も終わった状況で、これからどうするかということであるのだが。
随所に、宮沢賢治が登場するのは嬉しく読めるが、Ⅱでは、井上ひさしも登場する。「釜石や大槌あたりは、作家・井上ひさしの精神史的な原風景が刻まれた土地なのである。」(p.135)原風景が感じられるまちづくりというのはどういうことか考えつづけようということであろうか。
Ⅲでは、縄文の痕跡を紹介し「リアスの海に生き死にを重ねてきた人々は、まさに海山を生きる知恵と技を豊かにたくわえていた。」まさに、それを発展することを考える。寺田寅彦を引用した上で「寺田にとっては、あらゆる災害は抗いがたいもののように見えて、実は人為的に惹き起こされるものだという認識が、前提となっていた。」(p.164)これは、現在も日本建築学会で富樫豊を中心に議論している「人為的要因による自然災害の防止」というテーマそのものである。
Ⅳの最後の部分で、3.11の直前に戻すのでなく「たとえば百年前の潟の風景へとやわらかく回帰するシナリオだってあっていい」と言い「東日本大震災の被災地には、この入会地の思想が再構築の上で導入されるべきだ、と考えて来た。」(p.196)とある。
著者あとがきにもあるように、これらは東北復興思想の断片であるが、思いの多くを書いている。それからもう10年も経って、どのように展開しえたかである。そもそもこれからの東北を考えるとき、5年や10年で評価するようなものでないことは言えるが、三陸の集落としての新しい未来が少しは見えてきているか、さらに赤坂「東北学」を追求すべきか、まだわからない。


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