アジア人物史9巻に見る19世紀後半の激動のアジア

明治の日本が作られた同じ時に、朝鮮半島で、中国で、東南アジアで、中東で、中央アジアで、新しい国づくりに知恵を巡らせ、奮闘した人たちがいる。中学・高校で名前を知った人もいるが、全く知らなかった人物も多い。国ごとで様子は変わっても、ここに登場する人物は、今も政治への意識や文化に影響を残しているように感じられる。
第1章では朝鮮の市井の思想家として崔済愚(1824-64)が登場する。西洋の学問とは異なる風土に根差した「東学」を創始するが、徒党の不穏な動きと見た朝鮮王朝は捉えて絞首刑に処す。その30年後に東学農民戦争として火を噴いたという。
第2章は、同じ朝鮮が、日本の軍事支配下で保護国になる時代。高宗(1852-1919)が、1907年7月、日本の強要で退位させられ、次男で皇太子の純宗(1874-1926)が即位となるが、その後1910年8月、「併合条約」で韓国は滅亡する。300年にわたる朝鮮王朝後期の王位継承が、中央政治を握る閔氏の系図とともに解説される。安重根(1879-1910)の伊藤博文暗殺に関しては、日本側の対応、韓国、中国の論調など、今も研究対象となっているという。
第3章、幕末の政治思想で登場するのは、渡辺崋山(1793-1842)、生田万(1801-37)、徳川斉昭(1800-60)、佐久間象山(1811-64)、吉田松陰(1830-59)、横井小楠(1809-69)である。
第4章では、少し時代が下って明治となり、福沢諭吉(1835-1902)を中心に語られる。「智徳」を発達させることで「文明の太平」と呼ばれる理想社会を描いた。西洋的近代社会における個人のあり方を「独立自尊」という言葉で表し、日清戦争の勝利を文明国への道として評価し、また自分の追求した社会のあり方にも満足して自らを総括したという。中江兆民(1847-1901)は、ルソーを翻訳し、民が自ら立法して、それに従う「自治」の政治に、儒学の「義」に通じる規範原理を見出した。勝海舟(1823-99)は福沢と咸臨丸でアメリカに渡った仲間であるが、政治構想も含めて立場を異にし、日清戦争に対しても反対の立場を取っている。また、福沢は大久保利通(1830-78)に対しても、政府官吏として「人権」を踏みにじるところありと批判している。西郷隆盛(1828-77)に対しては、「天下の人物なり」と評価しつつも「権利の未熟」という言い方で距離を置いている。大隈重信(1838-1922)は、政府主導のイギリス風議員内閣・政党内閣を提唱し、実現に奮闘した。日清・日露を経て「支那を文明に導き得る国」は日本と訴え、辛亥革命後の袁世凱政府にも接している。福沢に対して同志としての意識をもっていたとされる。
第5章では、日本の資本主義のリーダー、渋沢栄一(1840-1931)が丁寧に紹介される。江戸の身分制社会への疑問から尊王攘夷・討幕運動に身を投じるが、一橋家に縁を得て、1867年のパリ万国博覧会派遣使節団に加わることとなった。維新となり、銀行経営に乗り出し、東京海上保険、大阪紡績会社、日本煉瓦製造など、数々の民間事業を立ち上げた。日清戦争後は「軍事大国化してアジア大陸に軍事的膨張を行うことを断念せよ」と主張するも、台湾、朝鮮の植民地化の方針を転換する力にはならなかった。養育院への支援に力を入れ、慈善事業への貢献も大きな役割を果たした。労働問題や教育事業への貢献、民間外交の取り組みにも力を注いだものの、成果は芳しくなかった。「政経分離」の考え方から日本軍の侵略的行動を批判したが、政策転換を求める発言は控え目であったとの批判もある。岩崎弥太郎(1834-85)は、オーナー権限の強い企業経営により企業を育て、三菱財閥の創始者となった。松方幸次郎(1865-1950)は、明治の元勲松方正義の三男で、川崎造船所を育てた。フランスに残された松方コレクションの大部分が59年フランス政府から寄贈返還され、国立西洋美術館に収められた。
第6章は、伊藤博文(1841-1909)である。ヨーロッパでは、1853年からのクリミヤ戦争で、ロシアの南下政策がオスマン帝国に阻まれた。ビクトリア女王のイギリス、ナポレオン3世のフランスの支援による。1856年のパリ条約が「万国公法」となった。アメリカでは南北戦争(1861-1865)の時でもあり、そんな中で、日本を西洋と対等な国に作り上げる政治が画策された。憲法を作り上げた男として、伊藤の残した文章を紹介しつつ、14の節を設け100ページにわたって解説されている。世代交代が起きたのは、西南戦争終結の1877年、西郷が自刃し、木戸孝允が少し前に病死、翌年5月、大久保利通が紀尾井坂下で惨殺された時という。1882年3月、欧州憲法調査に出て、ベルリン、ウィーン、ブリュッセル、ロンドンで憲政を学び、翌年8月帰国。その間、岩倉具視が世を去っている。1885年12月明治天応が参議伊藤博文を初代内閣総理大臣に任命した。憲法草案は1888年4月から7月まで枢密院で審議された。1890年7月には、第1回衆議院総選挙が行われた。(普通選挙までさらに35年、男女参画にさらに21年かかっている。)政府内の桂太郎、山形有朋、寺内正毅らの韓国併合論には反対し続けたものの、枢密院議長の要職にありながら1909年7月の閣議決定を黙過した事実は変えようがないという。
第7章はキリスト教的知識人として内村鑑三(1861-1930)が登場する。日本におけるキリスト教信徒は1%と言われるが、学問や文化的領域にあっては、主流派として捉えられるという宗教的教養とでもいうべき思想の原点の人である。ある意味でささいな教育勅語不敬事件は、皇室を愛すべき存在とし教育勅語の内容も賛同している身にとって、つらい状況をもたらした。宗教的教養の時代をつくったという意味で、新渡戸稲造(1862-1933)、南原繁(1889-1974)、矢内原忠雄(1893-1961)は、内村の思想の実践者とも位置付けられる。
第8章は京都帝国大学の東洋学が紹介される。新聞記者から教授となった内藤湖南(1866-1934)である。日清戦争の後という時代背景の中で、日中の学術交流の深さと質の高さは驚くべきであった。中国史を分析する中で、唐代から宋代への変革を貴族の没落と庶民の台頭による文化の一大変革と捉える見方は影響力の大きなものの一つという。満州国に世界民族の楽園を描き、5.15事件での犬養の突然の死を悼んだ。鈴木虎雄(1878-1963)とその弟子にあたる吉川幸次郎(1904-80)も、その流れに連なる。
第9章は、中華民国の誕生と模索を孫文(1866-1925)に見る。ハワイで成功した長兄の孫眉(1854-1915)、育ての親の役割を担った何啓(1859-1914)、3人目の育ての親ジェームズ・カントリー(1851-1926)の存在が、革命の人をつくったという。助っ人としての日本人は、写真家の梅屋庄吉(1869-1934)、宮崎寅蔵(1871-1922)、犬養毅(1855-1932)、フィリピンの活動家マリアの・ポンセ(1863-1918)、アメリカの冒険家ホーマー・リー(1876-1912)、ロシア人ミハイル・ボロジン(1884-1951)がいる。1911年武昌蜂起から辛亥革命は始まり、袁世凱が100万の軍を率い、孫文は臨時大総統に選出され、共和制の中華民国の確立を宣言する。大隈重信の支援を期待したものの、軍人政治家の台頭もあり、1919年中国国民党を発足させ、1921年に広州の国民非常会議で大総統選出させるも、北京政府打倒はかなわなかった。軍人政治家の段祺瑞(1865-1936)、陳炯明(1976-1933)とは、袂を分かつこととなった。ラジカルな革命家である宗教仁(1882-1913)は、国務総理の指名が確実視されていたが、上海駅で凶弾に倒れた。袁世凱の指示によるとも言われている。陳炳生(1888-1984)のように、生涯側近として勤めた後、晩年は香港で過ごした人もいる。
第10章は、東南アジアで、1930年代までの民衆反乱の歴史である。ミャンマーでは、サヤー・サン(1876-1931)。農民の結社による、両頭税、税金、政府の「三ない」運動は、ビルマ全土に現れたという。最後は絞首刑にあっている。シャムではオン・マン(生没年不詳)、ラオスではサーキットゴーン(生没年不詳)、ベトナムではドアン・ミン・フェン(1807-56)、ジャワではスロンティコ・サミン(1859-1914)、フィリピンではペドロ・カローサ(?-1967)など。いずれも宗教的背景もあって「千年王国運動」という概念でまとめられている。
第11章は、イスラーム世界のジャマルッディーン・アフガーニー(1838-97)。イラン生まれであるが、政治的事情があってアフガニスタン出身者と名乗って、イスラム世界の解放を目指した。19世紀中葉には、イギリスは、イラン・アフガニスタンの仲介者の顔をしてロシアの影響力から守るというポーズをとりながら、アフガニスタンの完全掌握を目指した軍事進攻を行っていた。イスタンブールでオスマン帝国改革運動の中では「人間は啓示を通じても、哲学を通じても、真理に到達することができる」(p.638)と主張していた。わが国の「天皇機関説」にも通じ、イスラム世界全体での民主化運動家として評価され、さらには、2011年の「アラブの春」にもつながるものであるという。 また、8年間滞在したエジプトでは、追放後のオラービー革命(1879-82)の思想的源流になっている。パリやロンドンでは、一瞬であってもヨーロッパの民主化勢力と接点をもったともいう。生涯を遍歴と亡命のうちに終えたとはいえ、その後のイスラム世界の独立を求める国民的運動に受けつがれている。マルクスやエンゲルスとも比較できる(p.630)と評価しているが、革命として成功しなかったという意味では、孫文などとも似た行動と言えるだろうか。
第12章はイランの文人政治家メヘディーコリー・ハーン・ヘダーヤト(1864₋1955)が、冒頭で1903年12月の明治天皇への拝謁の場面から紹介される。教育者としてのキャリアも積むところで、メッカ巡礼を口実として、ロシアからシベリア鉄道で天津に入り、長崎から神戸を経て、東京では、帝国ホテルに滞在、国賓待遇を受けることになった。日露戦争の直前に、立憲政治体制としての日本を手本にする姿勢が見られたようである。1925年パフラヴィ―朝を創始したレザー・シャーの独裁政治の下で、6年間首相を務めた。
第13章はトルコ革命で、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1880-1938)共和国初代大統領の登場である。テサロニキ生まれで、陸軍青年将校であったが、オスマン帝国の第一次世界大戦の敗戦後の混乱の中で、独立を成し遂げた。領土割譲をねらうギリシア、イタリア、フランス、イギリスの軍がひしめく中で、ギリシア軍の進軍を止めることに成功して、ロシアの支援もあり、アンカラを拠点に大国民議会政府を立ち上げ、1922年11月にはオスマン帝国を滅亡させ、翌年にはローザンヌ条約で連合国に共和国を認めさせることとなった。最近になって、トルコとしての国父の偶像化が徹底しすぎている反省がされるようになったという。ズィヤー・ギョルブ(1876-1924)はオスマン帝国瓦解の過程でトルコ人アイデンティティを模索し、ケマルが革命主義的な時に進歩主義的社会認識を示した思想家である。独立戦争にあって、先駆的役割を果たしたと言われるキャーズム・カラベキル(1882-1948)も紹介されている。
第14章は、中央アジアで、社会運動を担った改革派知識人が6人挙げられている。タシュケントの教育畑出身でトルキスタン自治運動を指導したムナッヴァル・カリ(1878-1931)、ブハラの秀才でウズベキスタン文学を確立したフィトラト(1886-1938)、同じくブハラで青年ブハラ人運動を指導ブハラ・アミール国を倒し新生ウズベキスタンを率いたファイズッラ・ホジェフ(1896-1938)、カザフに生まれトルキスタン独立運動家のチョカエフ(1890-1941)、ウラル山麓出身でトルキスタン民族運動を指導するもレーニンと対立しイスタンブル大学で研究者となったヴァリドフ(1890-1970)、カザフ出身でムスリム・コムニストを組織化したルスコルフ(1894-1938)である。ウズベキスタンを2016年に訪問し、タシケントに着いた後、ヒヴァ、ブハラ、サマルカンドを回ったことから土地のイメージもあり、近代国家への模索があったことが鮮烈に想像される。ロシアでの革命後のソビエト政権は、帝政のそれと変わらない姿勢で、改革知識人たちは、「反革命指導者」として逮捕・投獄されている。1938年には多くの知識人が銃殺刑に処せられた。1991年にソ連が解体し、中央アジアの革命史は大きく書き換えられたという。
冒頭でも記したように、19世紀後半の民主制の国づくり、そこに生じる抵抗や対立がテロや戦争を生んだりしてきた。わが国で明治の時代をつくった先人の思想や行動を改めて教えられるとともに、同時代に、アジアのあらゆる地域で、時にはより激しく時代が紡がれていたことに、感動する。
 

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