アジア人物史第2巻 世界宗教圏の誕生と割拠する東アジアに見る国々の葛藤

アジアの3世紀から7世紀までを辿る。仏教もブッダから700年800年経ってさらに発展し、大乗仏教と上座部仏教とが形成されてアジアに広まる。中国は、五胡十六国から六朝時代を経て、随・唐になって統一国家となる。朝鮮は、高句麗、百済、新羅の時代、西ではムハンマドがイスラム世界を誕生させる。西洋と異なり中国はいつも1つの国であったという印象は崩れた。この時代が、中国も朝鮮もイスラム世界も日本も、今に脈々と繋がっていることを強く感ずる。
第1章は大乗仏教。ナーガールジュナ(150頃―250頃)は、多くの書を著し、般若経における「空」の意味を論じたという。まさに現在まで続く仏教哲学であり世界観である。第2章はスリランカ、東南アジアで形成された上座部仏教。ブッダゴーサ(5世紀頃)が仏教の出家者として多くの聖典を注釈している。「清浄道論」では正しい生活習慣(戒)心の集中(定)英知(慧)の実践過程により涅槃に達するというもの。スリランカにおいては12世紀になってサンスクリット仏教を代表する大乗に対してバーリ語によるブッダゴーサの思想が正統となった。
第3章は前秦の君主苻堅(338-385)に焦点があてられる。308年に匈奴の劉淵(?-310)が漢(前趙)を建国して五胡十六国が幕を開け、100年の興亡の中、王猛との二人三脚で前秦内の権力を確立し天下統一を果たすも淝水の戦いに敗れ、瓦解する。五胡は、鮮卑、匈奴、氐、羯、羌をいう。儒教を理想とする君主苻堅は、西安の西110キロの地の墳墓に眠る。第4章は六朝時代の文化を示す「文選」編纂の中心人物としての昭明太子(501-531)が登場する。六朝とは建康(南京)を国都とする呉、東晋、宋、斉、梁、陳の六王朝を指す。さまざまな名士の集いが詩集に編まれた。王義之(303-361)の蘭亭の集いもその例という。(p.122) 梁武帝の長男として襄陽で生まれた統はすぐに皇太子に立てられ、3歳で孝経、論語を学び、5歳で五経を通読したと言う。(p.134)また、陶淵明(365-427)を愛好したという。曹植(192-232)は、曹操の子で才に秀でて期待されたが、逆に側近らに跡目争いが起こされ敗れて不遇の生涯であったというが、「文選」にはさまざまな文体が40首も収録されているという。
第5章の随唐革命では、蕭皇后(566-647)を中心に語られる。随を興した文帝(在位581-604)が、息子煬帝(在位604-618)の嫁に後梁の蕭を迎えたのである。文帝は奢侈を嫌い倹約を重んじたというが煬帝は南朝文化に惹かれていたのも皇后の影響大という。(p.178) 鎌倉武士の実朝が京文化に惹かれていたことに通じるか。2013年には煬帝と蕭皇后の墓室、遺骨、副葬品が発見されたという。(p208) 突厥との戦いや隋が滅んでからも、蕭皇后の生涯は、随から突厥に輿入れした義成公主の運命とともにドラマチックである。
第6章は改めて随の文帝(541-604)の治世が語られる。仏教信仰に篤く100基以上の仏塔を建立している。煬帝のときの三度の高句麗遠征が国を亡ぼすこととなった。607年に倭国が多利思比孤(小野妹子)を派遣し書状に「日出ずる処の天子より書状を日没する処の天子に送る。・・」とあり、皇帝は不快を被ったという。第7章は建国が前37年の高句麗の隆盛を広開土王(374-411)時代中心に記している。生まれながらにして偉大で優れた志を持ち、18歳で王となって東西南北の諸国と軍事で渡り合った。日本書紀にある百済と倭の同盟は、277年とあるのは間違えで397年のこと。倭王武は高句麗を敵視しながら中国王朝を意識しつつ、独自の勢力圏を形成していた。(p.344) 39歳の若さで死去すると嗣子の長寿王(393-491)が引き継ぐことなるが、百済対策もあって南下し、平壌に遷都する。一度は百済王都の漢城(ソウル)を奪取する(475年)が抗争は続く。第8章は朝鮮半島の6世紀で、百済の中興と新羅の台頭を迎える。武寧王(462-523)は日本で生まれ育った百済王である。百済が持っている先進的な文化・学問を送るかわりに倭国の軍事援助を求めたという関係が長く続いた。(p.387)1971年には武寧王の陵墓が発見され、2009年から10冊の新報告書が刊行されているという。新羅は真興王(534-576)が百済と和議を結んで高句麗領へ進出し、直接中国(東魏や北斉、随)との通交をもった。加耶国が滅んだのもこの時期で、「任那の日本府ごろにゃーん(562年)」と覚えたのを思い出す。
第9章で厩戸王子(576-622)が登場する。8世紀の漢詩集「懐風藻」に「聖徳太子」の名前が登場するが、死後の仏教的敬意を込めての呼び名であるとしている。母が馬小屋の扉に当たって産気づいて生まれたという話も定かでないという。日本書紀には「内教〔仏教〕を高句麗僧慧慈に、外教〔儒教〕を博士覚哿に学び修得した」(p.452)とあり、儒教の断片がすでに倭人に理解されていたとする。百済と倭国は同じ中国文化を共有していたと言ってよい。継体期から欽明期にかけて百済から「五経博士」が継続的に到来している。冠位十二階(603)や憲法十七条(604)が推古の行為主体のもとに行われた。死去の経緯については日本書紀と法隆寺資料でズレが指摘されている。蘇我稲目(506-570)や馬子(551-626)の百済を中心とした渡来人のとりまとめや書記としての行政的手腕は卓越していたようである。
第10章の古代東アジアにおいてまず登場するのは新羅の金春秋(603-662)で、660年百済を滅亡させ朝鮮において覇を遂げている。盟友庾信との逸話がおもしろい。蹴鞠をしているときに春秋の上衣のひもを踏んで綻ばせ、自宅にいた妹に繕わせ、それをきっかけにして結婚させたという。(p.518)これは、日本では中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの伝承の話にもなっているが、新羅の話をもとにした作り話という。(p.576)
第10章は、古代天皇制の成立と題し、天智天皇(p.626-671)と天武天皇(?-686)を取り上げている。大化の改新は主体が中大兄皇子であったのかというテーマを分析している。蘇我入鹿の殺害というクーデタで、中大兄や鎌足は関与しているが、幸徳派と反幸徳派の勢力争いであったことは間違えなさそう。当時は、天皇は40前後で即位することになっていたというのも面白いし、舒明の後にキサキの皇極が天皇になり、大化の改新後の幸徳の後もまた斉明天皇として天智天皇までに時間がかかっている。また、唐が女系の王を認めないと言うことに対して、新羅も日本も女系天皇を担いで対抗的態度を取ったというのも面白い。663年白村江で百済遺臣のため唐の軍船と戦ったが大敗している。天武天皇は壬申の乱で勝利し皇位を獲得した。日本書紀では天智天皇の評価が高いが、現実は異母弟大海人皇子の天武天皇が中央集権を成し遂げた。額田王をめぐる天智と天武の三角関係を想定させる歌が万葉集に残っているが、当時の複数の妻をもっていたことからも熾烈なものではなかったと想像している。それにしても、天武のキサキで天智の娘が持統天皇(645-702)はさらに律令制度を完成に導いたとされる。このような歴史を知ると現代において女帝に抵抗があることが信じられない。
第12章はイスラームの誕生ということで、ムハンマド(570頃-632)とその親類縁者がいかにしてイスラム教を強権的に形成していったことが語られている。
7世紀のアジアも戦乱の時代であったが、中国、朝鮮、日本で、宗教を拠り所として国としての制度が整えられていった時代である。


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