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"わたしたち"の範囲を拡げていくことで見えるもの

200円でどら焼きを買ったとき。
次の、どちらのように思いますか?

「200円で手に入れた」
それとも
「和菓子屋のおばちゃんが作ってくれた」

”ぼくたち”の範囲がせまくて、おばちゃんが外側にいる赤の他人だと思えば、200円で手に入れたと感じる。
お金がすべてを解決したという感覚になる。

きみのお金は誰のため より

身近な人何人かに質問してみたら、
「どらやき、200円は高い」
と一様に言われましたが…😂笑

どらやきに限らず、
お金でサービスを受けられる時代に、
それでも
「誰かかが作ってくれた」
「誰かに助けてもらえた」
と感じられるか。

特に私の住んでいる地方では、
働き手不足の現場をよく見かけます。

お金を出しても、受けたいサービスを受けられない。
そんな未来は、もう間近なのかもしれません。

***

”暮らし”を維持するには、
"ひとけ"が少ないほど、一人一人の「持ち出し」が必要になります。

豊かな共同体は、

メンバーひとりひとりが、共同体から受け取る分よりも、自分が持ち出した分のほうが多いと感じる共同体だけがコモンになりうる。

街場の成熟論 より

メンバーひとりひとりの「持ち出し分」は、
パブリックドメインに蓄積され、共同体を豊かにする。

恩恵を享受することばかり考えて、
コモンが貧しくなる方向に向かっていないか?

格差是正も子育て支援も、
国家はオールマイティに力を発揮できるのにしていない、という文脈で批判するのは、
根本的に幼さを表しているように思います。

日本の歪み より

国も、決して揺らがない盤石で当たり前のもの。
ではないのかもしれない。

子どもが大人になり、親の脆さを知るように、
国も、意外と脆いものだったりするかもしれません。

コモンの範囲を拡げて、みんなで国のことを考えるフェーズに入ってきているのかもしれません。

”ぼくたち”の範囲をどこまで広げられるか。
が問われているのかもしれないなと、
最近ぼんやり考えています。


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