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シン・俳句レッスン120

麦秋は秋とあるけど夏の季語。「むぎあき」と読むか「ばくしゅう」と読むか?和語を尊ぶ短歌や俳句では「むぎあき」の方がいいのかな。「ばくしゅう」だと熟語で漢語のようだ。二十四節気の小満に「麦秋至」とあるから中国から入ってきた季語なのかもしれない。「むぎのときいたる」と和語にしているが。小津安二郎の『麦秋』は名作であった。

麦秋や車窓の風景GHQ  宿仮

GHQは占領政策の意味。

『日本海軍』論

『船長の行方』「望郷の船団ー『日本海軍』論」で高柳重信は日本海軍の艦名を作品中に使用して艦名を無化させるという実験作を作っていた。

弟よ
相模は
海と
著莪の雨  高柳重信

「著莪(しゃが)」が季語だった。

「相模」はもともと地名だが艦船名になったことで別の意味性を帯びてくる。「弟よ」という呼びかけは亡き者だろうか?そう思うと意味が通じてくるような気がする。高柳重信がこれを一行俳句にしなかったのは、やはり一行書きだと墓碑俳句のようになるからだろうか?

弟よ相模は海と著莪の雨  山川蝉夫

高柳重信が一行俳句で書く時は山川蝉夫なのだそうだ。それは一行棒書きの効果を知っているからだろうか?

杭のごとく

たちならび
打ちこまれ  高柳重信

多行形式は常に意識してないと出来ないものだった。それは私が多行形式に惹かれながらうっかりすると一行棒書きで書いてしまう制度の問題があるかもしれない。

麦秋や
車窓の風景
GHQ  宿仮

高柳重信私論

エピグラフに小林秀雄の批評についての言葉。批評は愛情とか感情に由来するものだという言葉を引用するのは、ここで描かれるのは高柳重信の死についてだからである。私論というのはプライベートな高柳重信との関係性だろうか?その中に同じ群馬県出身者というのがある。

正確には父の出身が群馬県なので戦争疎開していたようだ。それで群馬の俳句がテーマとして上げられる。

電柱の
キの字の
平野
灯ともし頃 高柳重信

桐生の町並みの様子を高台から眺めているのだという。キの字の電柱は象形的な表意文字とともに「キ印」という狂気性も感じさせるという。私は狂気性というよりメルヘン性みたいな宮沢賢治の電柱の詩を連想したりした。

一番引っかかるのは「灯ともし頃」は「とうともしころ」と読むのか?最初ふりがなで「ともしころ」と読むのだと思ったのが違うみたいだ。「灯ともし頃」は「逢魔が時」でそれがキ=鬼の時間だと読む。

「灯ともし頃」は「とうともしころ」と読むのだと思ったのは宮沢賢治が電灯の点滅についての詩があったからなのだ。「とも」はふりがなとして読んでも違和感ないし、それを音でよんでも違和感はない。つまり「とも」は点いたり消えたりする点滅する電灯のような感じを受けるのだ。ファンタジー観があるのはそんなところだろうか?それはまさに高柳重信の命の点滅だったかもしれない。

俳句の頂

『角川 俳句 2024年4月号』から「特集 俳句の頂」から。

凧きのふの空のありどころ  与謝野蕪村

俳句の頂(いただき)とは高みのことか。俳句の基本として、上五が決まればおのずから俳句は決まってくるようなきがする。それにどう合わせるかという。高柳重信が示したのはそのような頂きのある一行俳句の嫌らしさのようなものではなかった。

高柳重信は一行俳句にするときは別名で山川蝉夫を使っていたという。いかにもという俳号だった。

凩のあとはしづかな人枯らし 山川蝉夫

これは蕪村を意識しているようにも思える。また蝉夫というぐらいだから蕉風な感じもする。この句は横書きが似合うのかもしれない。

炎天に黄土を積みて家となす 楸邨

楸邨の観光地俳句ではない俳句だという。観光地俳句といわれそうなのはいかにも芭蕉だよな。ただ芭蕉にはその観光地に行くも西行という目的があったのだと思う。

荒海や佐渡に横たふ天の川  芭蕉

「横たふ」芭蕉か?

此秋は何で年よる雲に鳥 芭蕉

この句も頂というより横たわる句のような気がする。雲の流れと鳥の動き。蕪村の句と対になるような気がする。

チューリップ喜びだけを持ってゐる 細見綾子

これはよくわからんな。チューリップと決まった時点でじゃらじゃらパチンコの句かと思った。たぶんもっと平和的な純粋な気持ちなのだろう。パチンコだったらけっこうすさんだ喜びだよな。こういう主婦がいてもいいと思うが。俗な俳句だったらこっちだよな。雅だけでは詰まらん。

夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉

芭蕉を上げる人は多い。けどこれも横に広がっていく句だった。

天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也

この人若い人じゃないか。

韻律から見た俳句と短歌

馬場あき子編『短歌と日本人 Ⅲ 韻律から短歌の本質を問う』坪内稔典「韻律から見た俳句と短歌」より。短歌の批評本に俳人の批評が出ていたので興味深く読んだ。結論から言ってしまえば韻律から見た俳句と短歌の違いよりも、俳句は無私なる自然で、短歌は演じる私ということだった。俳句の無私もまったく私性がないのではなく、まねぶということだという。それは短歌が雅さ(和歌の時代から)を詠むエリートの短詩であったのだが、俳句は雅さに対して俗を詠む。それも真似をするということだった。句会が選者の句を真似ていかにもオリジナリティのように振る舞うのか、それが昔の句会だったと言う。昔は句会は短歌を詠むエリートではなく庶民の遊びとして村で行われた娯楽(ゲーム)であり、それに景品なども出たようである。今は逆でお金を取って名誉だけというのも多いようだ。

俳句と短歌を両方で名をなしたのが正岡子規と寺山修司であるという。彼らの革新性。正岡子規は病身で持って自身の側にある物だけを写生することで世界を開いていった。もともとは軍人に憧れたのだが病気がそれをゆるさず花鳥諷詠を愛するようになったという。寺山修司は短歌も俳句も演じることだったという。青春を演じて、故郷を演じる。

今の短歌は演じるということが少なくなってきた。一人称で現実を読まなければ駄目だという。しかし俵万智は演じていたのだった。俳句も境涯俳句のようなものが主流になっていく。もとは人のモノマネからはじまったのだった。芭蕉は西行の歌を真似て自身の俳句に生かした。そして蕉風であることの革新性を目指したのだ。

ただ韻律は自由律にしても定型を外しても残っていくのは定型だという。そうかなとも思うが、確かに定型だと作りやすさはあるのだ。自由につくれといわれても真似するものがないといきなり詩心が湧き出るというものでもなかろう。そのへんは毎日の訓練だと思うのだ。


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