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シン・俳句レッスン35

栗も難しいんだよな。まあ大体季語そのものというものは難しいのだが。栗だと栗ご飯とかありきたりな感じだろうか?子季も多かった。

丹波栗(たんばぐり)/芝栗(しばぐり)/ささ栗(ささぐり)/山栗(やまぐり)/毬栗(いがぐり)/一ツ栗(ひとつぐり)/三ツ栗(みつぐり)/笑栗(えみぐり)/出落栗(でおちぐり)/落栗(おちぐり)/虚栗(みなしぐり)/焼栗(やきぐり)/ゆで栗(ゆでぐり)/栗山(くりやま)/栗林(くりばやし)/栗饅頭(くりまんじゅう)/栗鹿の子(くりかのこ)/栗きんとん(くりきんとん)/マロングラッセ

でもやっぱいがだよな。いがという漢字はないのか?「毬」と書くらしい。ちっともいがいがっぽくないではないか?まり?とか思ってしまう。

いがいがの意外性もないいがの栗

この句も音韻で勝負だった。毬は意外性があるか?

いがいがの意外性だった毬の栗


戦時下の俳人たち

川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』から「戦時下の俳人たち」。富沢赤黄男、渡辺白泉、鈴木六林男。

新興俳句弾圧事件の後、それまでのように自由に俳句が作れなくなり体制翼賛的に変貌していくしかない俳句雑誌であった。その中で「旗艦」と「天の川」2誌は存続したが「旗艦」の新体制の精神というのは、まさに迎合そのものだった。

迎春(抄)  日野草城
粛々たり身辺に年あらたまる
皇国のいやかがよはむこの年こそ
星ほどもわが照らな日とかがやけ御国

「旗艦」は昭和16年に終刊。その後を継いだのが「琥珀」だった。そこだけが新興俳人の行き場所だったのである。それでもかつての新興俳句は影を潜めた。「天の川」も昭和18年に休刊に追い込まれていたが篠原鳳作亡き後は俳句雑誌の力もすでに失っていた。

富沢赤黄男は体制翼賛の意識構造に順応していくが、それでも従軍戦争俳句には見るべきものがあった。

鶏頭のやうな手をあげ戦死んでゆけり
蝶墜ちて大音響の結氷期
爛々と虎の眼に降る落葉
からたちの冬天蒼く亀裂せり
ひたひたと肺より蒼き蝶の翅

もっとも態度を変えなかった白泉にしても古典俳諧研究という志を勧めていかざる得なかった。

熊手売る冥土に似たる小路哉
檜葉の根に赤き日のさす冬至哉
春昼や催して鳴る午後一時
あしあとを伸ばして日暮るゝ蟇(ひきがえる)
鳥籠の中に鳥飛ぶ青葉かな

敗戦を迎えるに当たってやっとそれまでのように戦争俳句を作ることが出来た。

夏の海水兵ひとり紛失す
戦友の耳などありしところかな
俘虜の眼の青さに見られ躓ける
玉音を理解せし者前に出よ
ひらひらと大統領がふりきたる

そんな中で鈴木六林男は従軍しながらも厳しい検閲をかいくぐって自身の句を残した。それは赤黄男のように前線から検閲を通して俳句雑誌に送ったのではなく、前線ではノートに取らずに暗記して(その点俳句は便利だった)、検閲されない船上から自身の句を雑誌に送った。

遺品あり岩波文庫「阿部一族」
墓銘かなし青鉛筆をなめて書く
あき風に地の凹凸を感じねる
ねてみるは逃亡ありし天の川
おかしいから笑ふよ風の歩兵達

いが栗を放おり投げては爆弾遊び

なんとなくやった覚えがあるような。

焼き栗は破裂するよと父教え

藤木清子

八ツ手咲けり英霊かへる日々しろく
元日のそらみづいろに歯をみがく
チョコレートとけて元日昏れてゐる
あきらめて縫ふ夜の針がひかるなり
ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ
冬の雨黒髪おもくひと病めり
寄食しておしろいを濃く塗つてゐる
冬暖の寡婦に債鬼が訪づれる
春昼を沈むリフトにひとりなり
いくさ闌(た)けたり真昼さびしき花とゐる

宇多喜代子編『ひとときの光芒 藤木清子全句集』

マンネリを感じる今日このごろ。


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