『シンジケート』の掟十首
『シンジケート』穂村弘
錆びてゆく廃車の山のミラーたち
いっせいに空映せ十月
図書館本なので旧装版です。高橋源一郎の解説が付くか付かないかの違いだけなのか?よくわからないですが『シンジケート』は最初に12ヶ月の短歌の連作。こういう感じの短歌集のオープニングは新鮮だし、何より真似して短歌を作ってみたくなる。
特徴としては、カタカナの積極的使用。モダンな気分の中に退廃の匂い(バブルが弾けた感の)短歌。
1990年という雰囲気があります。
子供よりシンジケートつくろうよ
「壁に向かって手をあげなさい」
本のタイトルにもなっている一首。実際の生活短歌というより架空の抒情短歌である。「架空のオペラ」と中上健次が言ったがこれは「架空の短歌」なのだ。
それは映画の世界を彷彿させる。ハードボイルドの探偵映画風。まさにそれが短歌界のヌーヴェル・ヴァーグだったのだ。「」の効果的使用は映画のセリフのようだから有効なのだ。
その他にも映画的な短歌を歌っている。
テロリズム短歌だがどこか映画のワンシーンのような感じを受ける。ゴダールの『気狂いピエロ』のような。この年代とかは映画は邦画より洋画で育っているのだ。次の一首も映画を彷彿とさせる。
ゼロックスのふたり光に染まりおり降誕歌うキャロルの楽譜
「キャロル」とか出てくる。「ドラえもん」世代は知らないだろうな。矢沢永吉がソロになる前のヤンキーなロックグループで横須賀のネエチャンなんかは熱狂していた。ロングスカートとボンタンの時代だった。「顔は止めて、腹にしな」の国会議員の不良時代。
その短歌は「ゼロックス」から始まるのだから時代、この頃はもう少し新しい時代に入っている。
ゼロックスの「ロックス」がキャロルを引き出している。コピー機や永ちゃんでは、ここまでのシャープさは出ない。「きみはファンキー、モンキー、ベイビー」だよ。
その他にも懐かし短歌。
マグマ大使世代なのか?懐かしい。あの頃のTVは輝いていた。SMAPじゃなくフォーリーブスの江木俊夫だよ。ジャニーズのお兄さんたちだ。歴史は「マグマ大使」から作られた。そんなマグマ大使も「葛湯」製造班だ。
月よりも苦しき予感ふいに満ち
踊り場にとり落とす鍵束
穂村弘は当時は新しい短歌だったのだろうが、今の若手短歌に比べると過去の短歌を踏まえている影響が見て取れる(寺山修司とか塚本邦雄とか)。例えばこの時代流行っていたのか葛原妙子の相聞歌というような短歌がこの短歌だ。葛原妙子に誘われて、短歌の鍵を拾ってしまうのだ。
上の句は寺山修司の影響が見られると思う。「花ぐもる」を「花ぐるま(風車)」にしなかったから、下の句につなげて穂村弘ワールドになっているのかな。
五月 神父のあやまちはシャンプーと思って掌にとったリンス
穂村弘の「神父シリーズ」は不思議だ。誰か親戚か親しい人に神父とかいるのだろうか。この日常性と非日常性のびみょうなアンバランスがいい。月読短歌でもあった。
わがままな猫は捨てよう真夜中のダストシュートをすべる流星
流星短歌は夜の世界の日常を描く。「ダストシュート」を流星に見立てた短歌だが、さらにそこに放り込むのが「わがままな猫」であるというシュールさ。
これも好きな短歌。マネキンの描写から「彗星」を持ってくるところの整然とした論理。ありえないことだが虚構としてはありえる世界だ。
ねむりながら笑うおまえの好物は天使のちんこみたいなマカロニ
この手の下品さは上の世代でも下の世代でも出せないような気がする。なんだろうな。『ハレンチ学園』とか『がきデカ』とか、当たり前のように享受した世代だらうか?
「うんこ」がそれほど抵抗なく受け入れられるのは、やっぱ『がきデカ』とかの影響だろうか?
眠れない夜はバケツ持ってオレンジの
ブルドーザーを洗いにゆこう
架空の世界の中に明確な言葉としてブルドーザが浮かび上がる。泥だけのブルドーザーを二人で洗えば、鮮やかなオレンジが浮かび上がる。夜の不気味な工事現場に放置された汚れたブルドーザーはバブル時代のツケを払わされているような。月ではなく、無機質的にスポットライトに照らされているのだろうか。「架空の短歌」ロマン派路線。この手の短歌が次世代と繋がっていくような感じである。
貧乏だけど貧しさは感じない。満たされた二人の世界は4畳半フォークなのだが、「甘栗の匂い」がどこまでも幸福感を感じさせる。
眼鏡派よりもコンタクト派が増えたのがこの時代。そういえばコンタクトしている女の子が増えてメガネっ娘が貴重な存在になるのだった。私はまだメガネっ娘世代だったような。あの頃の最先端女子にこの短歌のようなセリフが言えたら合格だよな。
目薬をこわがる妹のためにプラネタリウムに放て鳥たち
「プラネタリウム」のモダンなカタカナ使いも特徴的だが「目薬」というキーワードに注目したい。目薬短歌は秀逸なのが多い気がする。目薬というアイテムの奇妙さ。目を保護するものだが、その一瞬は見えなくなるのだ。
「頬」というスキンシップされる場所に「目ぐすり」をさしてしまうのだ。スキンシップは「あやまちの頬」で偽りの涙という偽装は、松田聖子の涙を想起させる。虚構を演じることしか出来ない世代の姿があるのかもしれない。
終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて
〈降りますランプ〉の造語の見事さ。でも降りないで眠り続けていたのだよな。二人の世界は現実界にあるのではなく想像(短歌)界にあるのだ。この歌だけで穂村弘のセンスの良さというか、私が短歌の中でも一番好きかもしれない。井上陽水の「リバーサイド・ホテル」の世界なんだよな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?