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シン・短歌レッス111

王朝百首

うすく濃き野邉のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむら消え                     宮内卿[

「若草の宮内卿」と言われた歌だそうで、雪斑の中に若草が萌え始めている様がなんとも美しいという。その作成年齢が15・6歳の頃で千五百番歌合で寂蓮の和歌に勝ちを得たということで話題騒然となった少女歌人なのだろうか?その素質は後鳥羽院にその才能を認められ俊成卿娘と切磋琢磨したという。わかりやすいと言えばわかりやすい歌なんだが。

NHK短歌

ぐっとくる瞬間 「日記」。選者岡野大嗣さん。ゲストは漫画家藤田和日郎さんは泉鏡花の言葉に「瞬きする時に、人の側には物の怪がいる」という言葉に影響を受ける。それが漫画のアイデアになっているという。鏡花は俳句も作っていたよな。

<題・テーマ>吉川宏志さん「組織」(テーマ)、岡野大嗣さん「続き」(テーマ)~2月5日(月) 午後1時 締め切り~

<題・テーマ>川野里子さん「プラスチック」、俵万智さん「手紙」(テーマ)~2月19日(月) 午後1時 締め切り~

四月から俵万智なんだ。

齋藤史

雨宮雅子『齋藤史論』から。「軍歌のかなたに」。今、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』を読んでいるのだが、逆賊とされた男たちよりもその陰に生きた女たちの生き様を描いているのだが、齋藤史があまりにも父を尊敬した歌は今ひとつだと思うが、冒頭に掲げられた昭和の歌は凄みがある。

ある日より現神(あきつかみ)は人間となりたまひ年号長く長く続ける昭和
  齋藤史

齋藤史の父は2. 26事件で参謀としてはただ一人責任を取らされたのだ。その後の父親の不幸を巡る短い昭和という余生とは対称的に人間天皇は長生きすることになる。ただ齋藤劉は歌人として軍国イデオローグとして「短歌人」は報国文学運動となっていくのである。それは岡井隆は批判出来ないというのが、現にそうした短歌を批判していた歌人もいたのだから全てが戦争協力者となったわけではない。まあ、それをいちいち取り上げるのもなんだが、賛美することにはならないのだ。反省すべきところは反省するのでなければこれからも短歌はそういうものとして有り続けなければならないだろう。

むしろ戦後にそんな齋藤史を批判した塚本邦雄の短歌論の方が正しい気がする。

「華麗なる解体─ある論争」塚本邦雄vs.齋藤史

この論争は塚本邦雄と齋藤史の相互批評なのだが、お互いにズバリ相手の弱点を突いているようでいて、お互いの短歌に対する情熱を感じられる歌論であったという。こういう論争が最近なされないのが残念でならない(知らないだけなのか?)。ここから自分自身の歌論を構築できるような気がする。

まず塚本の批評は前に述べたようにモダニズム短歌として謳歌した齋藤史は戦後は日本のどうしようもない村落共同体へ陥ってしまったというもの。そこには「短歌人」で述べられていたような保守的な短歌界の流れに陥ってものがあるというのだが。

齋藤史の塚本評は、喩えに凝りすぎていて、それが表面的なものに感じられる。上っ面だけではないのかというのだが、齋藤史の塚本評の歌論は技術論を含んでいて面白いのだ。齋藤史がそこまで技術的なことにこだわっていたと新たに知ることになった。精神的な天才型かと思ったがそうでもなかった。

この論争はお互いに近いからこそ近親憎悪的なものがあると思う。塚本は葛原妙子は絶賛するのだった。それは疎開しても貴族的な生活を捨てないで精神は貴族的だから。それが幻想だと理解しているかというと天然なんだが、塚本はそこを理知的処理していく。齋藤史は葛原妙子の貴族性を脱ぎ捨てるのだが、そこに軍人魂というか父の亡霊がついて回る。それが短歌の伝統なのだが。二人の歌論の違いが短歌になって現れる。そして、それ以降齋藤史の短歌も変わったという。短歌を見ると同志的な感じさえする。

ピペットに梅干色のわが血沈む 一揆にも反乱にも破れたりき  齋藤史
血漿色の梅干を家ごとに秘め革命に見放されをり われら    塚本邦雄

書き換えられた未来

小林幹也『短歌定形との戦い』より。「書き換えられた未来──塚本邦雄と西行」

塚本邦雄の近親憎悪が西行なのだろう。

ただ塚本邦雄の短歌には注意を要するのは、「馬丁一匹」と人間ではなく家畜として描いているのである。

国民文学への期待

篠弘『現代短歌史Ⅱ 前衛短歌の時代』から「大衆社会と新聞歌壇」。戦後に新聞歌壇によって投稿俳句が流行るのだが、社会詠が問題になってくるものこんなところからなのか?そのなかでも五島美代子は無名者の生活詠から我々歌人が学ぶところがあるとした。五島美代子の取り上げる若い詠み手の短歌は、それまでの短歌とは違う新しい流れを呼び込んだ。

未来にもわれにも向ひて走りつつ届かぬ星の光あるべし  石本隆一

起きられない朝のための短歌入門「つくる」


我妻俊樹/ 平岡直子/著『起きられない朝のための短歌入門』から「つくる」。二人の現代短歌の若手が創作のヒントや読み方のヒントを語り合う入門書らしからぬ、入門書。

初心者は入門書の型に囚われてしまうので、少しでもそういうものを解きほぐしたいという感じだろうか。

まず現代短歌の影響を与えた穂村弘の『短歌という爆弾』から「砂時計のくびれ理論」(そこは全然引っ掛からなかった )。短歌にはキーポイントなるコトバ一つを砂時計のくびれにして、時間の流れとして上句と下句によって共感するコトバにしていく。それは情景を心情に共感させることかもしれない。ただ穂村弘はそれが一つのコトバではなくいくつものコトバがあるということだった。

もう一つ短歌の作り方として、まったくの白紙からつくるのではなく本歌取りをしているということだ。それは最初に短歌を作るときに感動した短歌の見様見真似で詠んでいたということなのだ。そこで主題を変えたり、批評性を持ち込んだり、つまり先例の言葉があって自らの言葉が発話できるということだ。本歌取りの手法はプロでは当たり前だった。ただ平岡直子は有名な人の短歌よりも身近な人の短歌を真似ると言っていたのは学生短歌の出身なので、そういう内輪の中で日々切磋琢磨していく感じなのかなと思う。それは一般的にはわかりにくいし、内輪だけの世界だと思うのだが。

うたの日

お題「シーラカンス」。今日の本歌は、宮内卿行くか。真逆だな。まず砂時計のくびれだな。「雪のむら」か?共感を得られるか?

うすく濃き野邉のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむら消え                     宮内卿

斑雪シーラカンスの骨のごと土から萌へる若草ありや 

♪3つの❤が一つ。前回どんまいだったんで、それなりに成果はあったかなと。シーラカンスを海とか水族館でイメージするのに、ひとりだけ「斑雪」だった。これは本歌取りの影響だから仕方がない。天邪鬼といえば天邪鬼なのだが。

映画短歌

『哀れなものたち』

本歌

ある日より現神(あきつかみ)は人間となりたまひ年号長く長く続ける昭和
  齋藤史

「人間となりたまひ」は使えるな。現神(あきつかみ)をフランケンシュタインにすればいいんだ。

本歌取り短歌。

愛こそはフランケンシュタイン博士より人間となりたまひ怪物はどこ?この世の果てに  やどかり




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