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シン・俳句レッスン94

今日は「目白」で行こう。小鳥。春を呼ぶ鳥は鶯だけど目白のほうが相応しいのかもしれない。先日詠んだ目白で一句。

目白チロチロ翔び返り花散らす

孤独の俳句

金子兜太・又吉直樹『孤独の俳句 「山頭火と放哉」名句110選』。今日も山頭火。

うれしいたよりが小鳥のうたが冴えかへる  山頭火

その前もやったけど、ここに小鳥の句があった。小鳥とは息子から来た子供を生んだという便りだった。春の便り。

旅も一人の春風にふきまくられ  山頭火

新たな旅立ちは春風の歓待を受けているのかもしれない。

お墓したしくお酒をそゝぐ  山頭火

俳人の井月の墓参り。

井月は江戸末期から明治にかけて活躍した漂泊の俳人で山頭火にも影響を与えたようだ。芭蕉を尊敬していたという。

我道の神とも拝め翁の日  井上井月

芭蕉忌に詠んだ句。酒好きで酒の句も多いという。

親椀につぎ零(こぼ)したり今年酒  井上井月

芥川龍之介が井月の俳句を評価していた。

酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ  山頭火

「自嘲一句」とあるという。アル中なんだろうな。依存症は努力すれば治るというものでもないからな。山頭火の場合、人恋しさが酒に溺れさせたような気がする。そんな中で最後の旅、松山へ向かったという。

その松の木のゆふ風ふきだした  山頭火

松山に向けて旅の出発をし、途中小豆島に寄り、放哉の墓前で詠んだ句だという。放哉が住んでいた庵(南郷庵)の側に松の木があったというので、そのことだろう。放哉の存在を感じる風だったのかもしれない。「ゆう風」という言葉に山頭火の晩年の決意が滲んでいると金子兜太の解説。

枯草しいて月をまうへに  山頭火

今までの句に比べ甘えがないような。野宿での草枕。覚悟が伺われる。

旅空ほつかりと朝月がある  山頭火

有明の月。祝福されたものを感じる。「ほつかり」は山頭火独自の言い回しだという。それまでの苦行という感じの旅ではないな。

しぐれて人が海を見てゐる  山頭火

この句にも他者を感じる余裕があるように感じる。それまでは自己中だったような。いよいよ卑俗が落ちてきたような姿か。このへんの句はいい。

山のするどさそこに昼月をおく  山頭火

山頭火が西行から継いでいるものはこんな月の句ではなかろうか?西行の月、山頭火の月。金子兜太もいい状態であるという。

秋風あるいてもあるいても  山頭火

不思議とこの秋風も向かい風の厳しさよりも追い風励ましように思える。行乞遍路旅の終盤という。最後の地松山が待っている。

風は初夏の、さつさうとしてあるけ  山頭火

最後の地松山で一草庵に入った後にまた旅に出たのだった。それは句集を配るお礼参りの旅だという。

おちついて死ねさうな草萌ゆる  山頭火

もうやり残すことはなく、ただ死地を訪ねていたのだろうか?金子兜太は四国を行乞遍路した後の「名残の放浪」という。

もりもりもりあがる雲へ歩む  山頭火

『定本 山頭火全集』の俳句総集編の最後に置かれている句だという。これは素晴らしいな。山頭火が見えるようだ。死の年の最後の句。

金子兜太の解説によると山頭火が注目を浴びたのは学生運動の頃だという。つまりヒッピー文化と共通するのだろう。ケルアックとかも俳句に興味があったし。そういう精神解放としての句ではなかったのか?最初のころはそれが苦行となっていたが晩年はそういうものから解脱したものを感じる。

現代俳句の海図

小川軽舟『現代俳句の海図 昭和三十年世代俳人たちの行方』から「正木ゆう子」。この人はNHK俳句で馴染みがあった。高校一年の時にミニスカートで体育祭の応援をしたというのはポイントが高いかもしれない。

しかし正木ゆう子が注目を浴びたのは五十歳で第三句集『静かな水』であったという。平成の歌人だったのだ。

水の地球すこしはなれて春の月  正木ゆう子
春の月水の音して上りけり

『静かな水』

よくわからないけど水という透明感と春の月という雅さかな。この句集は物語のように春から春までという連句集なのだという。一句の際立ちよりも連句としての繋がりか、そこに水が面々と流れているのかもしれない。地球がテーマということだな。月をテーマに連作句というのは先を越されたな。まあ、こういうアイデアはすでになされていると思っていた方がいいのだ。

そうか。月というのはアポロ世代なんだ。学生運動の混乱が終わって宇宙にイメージが向かっていく頃の俳句だった。キューブリック「2001年宇宙の旅」の翌年出版されたという。

潮引く力を闇に雛祭
オートバイ内股で締める春満月  正木ゆう子

女性性が月の引力と関わっているような。しかし、小川軽舟は作者の自注にがっかりしたという。オートバイの句は実際にオートバイに跨った人をみた句だというのだ。それでもいいと思うがな。幻想性が破られたのだろうか?

サイネリア咲くかしら咲くかしら水をやる
寒いねと彼は煙草に火を点ける   正木ゆう子

ストレートな抒情だという。口語俳句の新鮮さかな。まだ未熟さが残る抒情だという。

いつの生(よ)か鯨であり寂しかりし
かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す  正木ゆう子

象徴詩的な句だろうか?
俳人である兄の死のあとに山籠りをして神秘体験をしたとか。

天の川銀河発電所(現代俳句ガイドブック)

佐藤文香『天の川銀河発電所 現代俳句ガイドブック』から。鴇田智哉。この人もNHK俳句で馴染みがあった。

ひあたりの枯れて車をあやつる手  鴇田智也

枯草が揺れて車を誘導しているような句だという。その手が幽霊っぽい。薄とかそう感じるかもしれない。車をあやつるというのが事故を予感させそうで怖い句なのかもしれない。

そう言えば今日はまだ一句しか出来てないじゃないか?上手すぎる句の後はなかなか思い浮かばないものなんだよな。それで満足してしまう。

ひあたりの花咲く枝で宙返り  宿仮

目白を詠んだのだが単独では目白と思わないかもしれない。連句用か?

葦枯れて車の中に人のゐる  鴇田智哉

これも幽霊っぽい句か。葦は水辺だから事故車的なイメージ。藤田湘子にこんな骨のないものは俳句ではないと言われたそうだ。なんだろう幻想性を求めるのは泉鏡花の俳句にもあるんじゃないのかな?もしかして、泉鏡花が近いかもしれない。

揉んでる馬ども知れどもすれっど  鴇田智哉

従来俳句の日陰者だったのだが2010年以降大勢が鴇田智哉調にシフトしてきたという。それでNHK俳句にも出たのか。この句は言葉遊び的。

鳥が目をひらき桜を食べてゐる  鴇田智哉

一瞬意味不明だけど目白が桜の木にいるとこんな句になると思う。「目白」を「鳥が目をひらき」とはなかなか言わないけど。

目を白くさせ桜を散らす  宿仮

こんな感じか?鳥を入れないと怪しい人になってしまうな。

目を白黒させ桜を散らす目黒の目白  宿仮

長すぎか?こういう句が好きなんだが。工夫出来ないか?

桜散る目黒の目白目が回る  宿仮

目が回るのは人間。これは逆がいいのか?

目が回る目黒の目白花散らす  宿仮

回るほど後ろのみえてくる疚さ  鴇田智哉

鉄棒少女かな。

逆上がり目黒の目白花散らす  宿仮

これはいいかも。今日は

逆上がり目黒の目白花散らす  宿仮
目が回る目黒の目白花散らす  
目を白くさせ桜を散らす  
ひあたりの花咲く枝で逆上がり  
目白チロチロ翔び返り花散らす

今日は不調。目白にこだわりすぎだったかも。


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