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シン・短歌レッス130

王朝百首


                                 暮れゆく春のみなとは知らねども霞に落つる宇治の柴舟          寂蓮法師  

寂蓮法師は西行の友達だったか?

時代的には新古今集だから重なるので、辻邦生『西行花伝』でも登場人物として出てきたからだろう。

寂蓮じゃなかったな。寂然、寂念兄弟だった。間際らしいが鎌倉時代の僧侶というから、すでに春の繁栄は過ぎて暮れゆく春の情景なのだろう。

西行「僧形論」

吉本隆明『西行論』から「僧形論」。

西行の説話集『撰集抄』は今日では贋作とされているのだが、その西行像に影響を受けた芭蕉や後世の作家は「西行」その人よりも「西行」の思想に触れて影響を受けたのであり、その西行の思想的なものを表現しているのが『撰集抄』であり鴨長明『発心集』であるという視点から西行の思想を読んでいく。

その中で西行の歌は重要なのだが贋作も多いという。それは一つの歌だけで解釈すると幾通りにもストーリーを組み立てることが出来、それが『伊勢物語』などの歌物語だという。その物語部分に虚構性が含まれるのだが、それらは歌の解釈によって拡張された物語であるという。だから歌を単独で読む場合と繋がりで読む場合は意味が限定化されていくのが相聞歌などなのか?

(往生した僧)
むらさきの雲まつ身にあらざれば澄める月をばいつまでもみる
(西行)
まよひつる心の闇を照らしこし月もあやなく雲がくれけり

西行が険しい山に入ると木の枝に言葉を書きつけ、往生した僧がいたので、それに返歌した歌だという。遁世した僧の往生の姿を見て在家の武士であった西行が自ら「もとどり(髪)」を切って出家した様子は、自然死に近い形で往生した(澄める月をいつまでもみる)僧に対してのあこがれがあった。それは、源信(恵心僧都)『往生要集』から法然・親鸞の浄土真宗の間にいた僧だという。源信は横川の僧都と言われ『源氏物語』でも影響を与えた僧で極楽・地獄世界を表した人である。つまり密教的な天台宗の流れから、法然・親鸞という誰でも御経を唱えれば成仏できるという浄土の思想、それはまだ念仏という形ではなく和歌だった。

吉本の西行論は、辻邦生『西行花伝』と似ていると思ってしまうのは、同じ頃の論考なのか?

『西行花伝』の方が後だが、吉本の『西行論』のすぐ後に書かれているので辻邦生の方が影響を受けたのかもしれない。しかし女院(待賢門院)との関係は作られたものだとしている。

(待賢門院)
伊勢の海あこぎが浦に引く綱も度重ねれば人もこそしけれ
(西行)
思ひきや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月を見むとは

『源平盛衰記』

「思ひきや」の歌は西行の歌には存在しない。ただ『山家集』に似たようなやり取りがあり、そこから西行の歌を創作したという。「おもいきや」の初句切れは『新古今集』のスタイルで模倣がしやすかったという。ただこのような類型歌が多いのは西行の歌の特徴でもあるという。即興的な歌が得意な西行ならではなのか?それは西行の説話では無視出来ないことだったのだ。西行の特異性(英雄譚)ということか。

いづくにか 身を隠さまし いひても うき世にふかき 山なかりせば

『山家集』

「深き山」は比叡や高野山の聖地を意味するが、西行はそういう修行僧であるよりも遁世僧だという。

深き山はこけむすいはをたゝみあげて ふりにしかたををさめたるかな 

『山家集』

西行の理念としては苔むす深い山への憧れはあったのだが、うきよも捨てられすにいた。鳥羽院の北面の武士の中での西行は当時流行っていた浄土思想に憧れていたということもあるが、エリート集団である北面の武士たちに嫌気がさしたこともあるのだろう。なによりも鳥羽院のやり方が女院と子である崇徳院を疎外する政治的な策略があった。また西行は平清盛のような強力な武士集団ではなく佐藤家という地方受領の出身に過ぎなかった。

しかし出家直後はそれでも都の動向(崇徳院)を気にしていたという。

くれ竹のふしゝげからぬよなりせば この君はとてさしいでなまし

『山家集』

西行は出家して初めて権力構造を外から見ることが出来たという。        

齋藤史

『記憶の茂み: 齋藤史歌集 和英対訳』から「やまぐに」より。

りんごの花のゆふべは霞むほの明かりたどりて何に逢はむとはする

信州に染まってしまったんだろうか?何に逢うのだ?まだこの頃は先行き不透明な気持ちなのかもしれない。「霞む」ということだった。

冬来ると心いぢけて雑草(あらくさ)の猛きみのりも憎しむものか

草の実はこぼれて止まずまかせたるいのち前に手をつきにけり

雑草は村人のことかな。「やまぐに」は三首だけだった。

「うたのゆくへ」より。

凍て雪をよろへる岩の意地つよき坐りざまをば見て物言はず

村人の頑固さに物も言えない日々なんだろうか?

草も畜類も眠りは深き夜の更けにがつがつとものを思ふは何ぞ

それでも夜更けになるとがつがつした言葉が出てくるのだろうか?この歌は面白い。

千曲野の五月のみどり浅ければ土に鳴く虫はまだ生(あ)れずかも

虫は史のがつがつしたものだろうか?

新しき憲法と村の生活の差を問ふ笑ひて茶をつぎしのみ

敗戦後に日本は新憲法など出来たが村は変わらないということだろう。茶を吹くではないので、そういう気持ちも納めているということだろうか?

口とざし何も言ふとせぬ一群の人思へばまことに世の流れ重し

田舎暮らしも楽じゃない。

不意に来て冷酷にものをいひ放つ人は善良な野良の面(つら)せり

白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り

この歌はここに出てくるのか。

切りすてし我のことばを人は知らず啼きやみて黒き鳥一羽墜つ

歌の言葉が黒き鳥なのか?まあ、それで発散させているんだろうな。

口語と出会った短歌律…馬場あき子

『短歌と日本人〈3〉韻律から短歌の本質を問う』馬場あき子「口語と出会った短歌律」から。

「短歌律」は五七五七七の律。今まで文語で書かれていたものを石川啄木がこのままでは短歌は滅亡していくと考えて口語短歌を作り出した。それは厳密な口語短歌ではないのだが、啄木が目指したのはわかりやすい短歌ということで行分け短歌として、短歌律ではない現代的な律を模索したのだ。例えば、

東海の小島の磯の白砂に
われ泣なきぬれて
蟹とたはむる  石川啄木

短歌の律にすると

東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

啄木の歌は初句切れが多いという。次の歌が初句切れだった。

頬につたふ   石川啄木
なみだのごはず
一握の砂を示し人を忘れず

初句切れは『新・古今集』に多く用いられるのだが、初句切れにすることで、五 七五 七七の形となり、五七調は古典的で七五調は現代的な律だという。そして一番多いのが五七 五 七七の型だという。五七で切るのは二句切れで古くからあるが「短歌」では三句切れが「百人一首」などに見られる方法なので、軽快な感じを受けるという。初句切れはさらに軽快というわけだった。俳句をやっていると上句下句という律になりやすく野暮ったいということだった。最初は初句切れからやっていくか?

初句切れと言っても啄木の場合行分けで切れを入れている場合が多く、上に上げた初句切れも通常では「頬につたふなみだのごはず」と修飾されていくのだった。このように行分けで初句切れにしている句は『一握の砂』では三分の一あるという。それが啄木の短歌律だという。

このような読みを指定した歌人は釈迢空がいる。短歌の律にこだわった作家は啄木、釈迢空、塚本邦雄と変遷していくのだった。啄木の口語短歌の影響は寺山修司にあるようで、俵万智もその流れのようだ。最近は、文語と口語を混ぜて併用するのが流行りのようである。

韻律から問う

鼎談「韻律から問う」馬場あき子X岡野弘彦(折口の弟子)X宝生閑(能役者)。いろはがるたでは関西と関東では音律が違って、関西では「一寸先は、闇」とか「ほとけの顔も、三度」と下の句は短いものが多いが、江戸だと同数律に近いものが多い。「憎まれっ子 世にはばかる」とか「貧乏 暇なし」というような違いがある。

和歌ももともと諺的な言霊と歌と二種類あったようで、諺的なものは呪術の言葉としてが短い言葉のリズムの積み重ねていくものがあったという。それが五七調七五調七七調になると歌になってゆく。古代の謡は五七調が多く、岡野弘彦はそういう長歌を作っているが校歌を依頼されるときは現代の人に合わせて七五調にするという。ジャズは七五調とか。五音は刹那い響きが多いとか、最初の呼びかけは五音が多い。初句切れは感情を伝えるので『新古今集』で流行ったという。

聞くやいかにうはの空なる風だにもまつに音する習ありとは  宮内卿

この歌はまだ恋も知らないで二十歳で死んでしまった宮内卿の歌だがこれが『隅田川』で母が死んだ子供の歌となると哀切な感情が出てくる。宮内卿は感情よりも技巧としての歌なのだが、それが人の声(母の声)に乗ると感情が出てくる。歌の調べとはそういうことらしい。短歌は意味が半分で調べが半分だという。短歌の切れはいろいろ研究してみる価値はありそうだ。俳句だと切れを入れるのも初句か二句切れで、あまり意識してなかったかも。

俵万智

『短歌研究2024年4月号』の俵万智特集の続き。

「魅惑のリズムのメカニズム」松村由利子

ここでも俵万智のリズムについてだった。

この曲と決めて/海岸沿いの/道とばす/君なり「ホテル/カリフォルニア」

字余り句跨りだが、特に下の句のエロさ全開か。「君なりホテル」と読ませる短歌の律。まあ「」の固有名詞は普通一つの律なのだが。

思い出の/一つのようで/そのままに/しておく麦わら/帽子のへこみ

これも字余り句跨りのテクニックの歌だった。

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋

以上三首は『サラダ記念日』から連作「八月の朝」なのだが、その前に「野球ゲーム」という連作を投稿して、こちらは角川短歌賞で次席だったのを「句跨り」「句割れ」を多用したという。そして「我」を「吾(あ)」に替えたことでリズムカルな口語短歌になったという(俵万智は口語と文語の併用だが、文語もわかりやすい、啄木→寺山修司→俵万智の系譜だという)

結語は「二・五の補助動詞+体言止め」の活用で詠嘆調の「かな」ではなく現代的になっているという。最後の五音はキーワードになる。そのリズムは現代短歌の転換点となった。

『「俵万智」という大きな物語』ユキノ進

俵万智の短歌は啄木から寺山修司の系譜というのは自己プロデュース力だった。『サラダ記念日』のあとがきで主演・脚本・監督・俵万智と書かれているように、俵万智が提示する女子はおじさん受けが良く、けっこう古風だったりする(待つ女の和歌のスタイル)。その後『チョコレート革命』では不倫を歌い、『プーさんの鼻』ではシングルマザーとして女性の生き方を問う。「父の不在」「片親」は俵万智のテーマであるがゆえにおじさん殺しの短歌なのかもしれない。万智ちゃんとイメージ付けながら実は教師であってモラルを問うのだ。そして、何よりもポジティブに表現することで、その明るさを全面に出す。俵万智がバズる秘密は、そのへんにあるのかもしれない。特に女子の模範になりながらおじさん連中に好かれる(旧態としたモラルがある)というところが一番のポイントかもしれない。

映画短歌

『美と殺戮のすべて』

今日も俵万智に挑戦。

思い出の/一つのようで/そのままに/しておく麦わら/帽子のへこみ

初句切れ、啄木→寺山修司→俵万智→というような歌を目指そう。

思い出はドラッグの酔い痛み止め壊れたこころプチ地獄絵図 やどかり

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