見出し画像

シン・俳句レッスン109

水仙

今朝の一句が水仙だったので。

水仙や一本糞の破壊力 宿仮

一般受けはしないだろうな。

咲き出でて日向水仙みな白痴 三橋鷹女

白水仙で飯島晴子があったと思ったら百日紅だった。

さるすべりしろばなちらす夢違ひ 飯島晴子

これを白水仙にすればいいのか?

白水仙夢違えばと彼岸かな

春の彼岸なのだが季重なりだった。彼岸は春と秋があるから季語じゃないよな?と思ったら春彼岸を彼岸というのだった。こういうのは可怪しいよな。

まあ季語に囚われない現代俳句だからいいのだが。

富澤赤黄男

坪内稔典・松本秀一編『赤黄男百句』から。

困憊の日輪(ひ)をころがしていゐる傾斜

登り坂で日が沈むのを見ているのだろうか?原句では「傾斜」が「戦場」となっているとい。「困憊の日輪(ひ)をころがしていゐる戦場」。こっちのほうがわかりやすいけどな。

一本の凄絶(せいぜつ)の木に月あがるや

燃えた木と月という焼け野原というような戦争句。

一輪のきらりと花が光る突撃

一輪の花はテッポウユリとかをイメージするな。一輪の百合の花の死者の突撃のイメージか?

蛇よぎる戦にあれしわがまなこ

結語の体言止めは一句をすべて受け止めるという。蛇と戦を両方みる「わがまなこ」なのだが、蛇を見ても驚かない無感動があるような気がする。新興俳句弾圧前の句で、蛇のような戦争が近づいていると読んでいた。

鶴渡る大地の阿呆 日の阿呆

意味はわからんが、阿呆という響きが好きだった。でもこれは鶴じゃなく鴉だよなと思うのだが、鶴は日本の象徴なのかな?

蝶ひかりひかりわたしは昏くなる

赤黄男は蝶が好きなのかな。ただそこには通常の人とは違うイメージのようだ。ひかりひかりのリフレインは、ひらひらを感じさせるがその表と裏の世界を行ったり来たりしている死者に対する視線なのかもしれない。

椿散るあゝなまぬるき昼の火事

これも戦争句なのか?椿散るがあまりにも主観的であるがゆえに無常観を表しているという。よくわからんが、悲惨な情況なのは確かなようだ。

花粉の日 鳥は乳房をもたざりき

受粉のことを言っているのだと思うが鳥を乳房に喩えたのが面白い。

窓あけて虻を追ひ出す野のうねり

窓でブンブン羽ばたく虻には野のうねりが見えていないのか窓にぶつかるのを助けてあげたのだろう。そこに希望を見出していたのだろうか?野のうねりは困難な道を表現しているという。

黄昏(く)れてゆくあぢさゐの花にげてゆく

夕方になって萎れていくあじさいだろうか?喪失感の歌だという。「あじさゐ」の旧字のゐがいい感じだ。

中村汀女

『観賞 女性俳句の世界2個性派の登場』から。4Tの中村汀女。解説は栗木京子。歌人だよな。なんで俳句なんだろう?

秋雨の瓦斯飛びつく燐寸かな

「秋雨」って言うかな。「春雨」からの転用だとは思うが。季語にあるから仕方がない。だとしたら冬雨とか夏雨とかあるんか?夏雨は梅雨なのか?なんか「秋雨」が安易すぎるような気がしてしまう。瓦斯にとびつく燐寸みたいな表現か?「台所俳句」の傑作という。「台所俳句」が悪いわけじゃないが、そういうジャンルを作るのは男なんで、そこに安易に乗っかってしまっていいのかということなんだと思う。今はそういう言葉も死語となっているのか?男でも「台所俳句」を作っているから、何を象徴するのかわからなくなっている。

腹減つて台所に飛びつく息子かな  宿仮

中空に止まらんとする落花かな  

夫の赴任先、横浜での一句だという。伊勢佐木町とか野毛山公園とか吟行をしていたという。いいんだけど雅なだけで俗がないのが不満かな。短歌でいいじゃんと思ってしまう。和歌の本歌取りのようでもあるし。和歌は恋の追想を詠んでいるのが、この句の「中空」はそういう意識がなくただ青空という。中空の青空と落花のピンクが絵画的なのかもしれない。和歌とは異なる俳句の無私性があるという。

サイコパス完全犯罪は落花の美 宿仮

『ゴールド・ボーイ』を観ての俳句。

あはれ子の夜寒の床の引けば寄る

これは私性が入っているな。母性本能だから一般的共感性はあるのか?俳句は私小説だというのは、これからやる俳句の方法論で石田波郷が言ったとか。境涯俳句もそういうことなんだけど、俳句はすべてフィクションであると言ったのが、富澤赤黄男だった。私はこっちの説だからあまり私小説的な句は好まない。この句は「の」の畳掛けが有効だという。それが「あはれ」の詠嘆調をいかしているのだと。でも「床の」は違和感ある言い方だな。俳句のために無理やり「の」を引き寄せる強引さを感じる。それが母性か?子の句が得意という汀女であった。

冬鏡子を嫁がせし吾がゐし

これは鏡が吾と映し鏡になっているから、まさに嫁の再生産というような句だよな。ちょっと怖い鏡の世界だ。保守的な女性に支持されるのは、こういう句なのか?そうか、吾を見ているから子を見ているのではないな(自分本意の親なのだ)。嫁がせたという空虚感だったのか?そういうことを意識していたのなら素晴らしい句なのかもしれない。

外にも出よ触るるばかりに春の月

自分や家族に言い聞かせているのではなく、当時の婦人運動関係者に呼びかけているのだと。でも、そういうのは句だけからは読み取れない。やっぱ家族とか自分自身に言っているのだと思ってしまう。その婦人運動関係者は神近市子とかもいたという。平塚らいてう中心とする婦人たちであったようだ。「五色の酒」事件とか。

クリスマスツリー地階へ運び入れ

当時の欧米化文化への憧れを詠んだ句。「地階へ」が単なる並行移動ではなく、また上昇運動でもなく、戦後復興のダイナミズムだという。地下のキャバレーとか?

新緑やたしなまねども洋酒の香

わざわざ理る必要もないのだが日本酒ならOKということか?汀女のイメージが和菓子なのだという。「たしなまねども」とわざわざ理を入れるのが上品さであるという。結局飲むんかいと言いたくなる。

手袋はこころ定めず指にはめ

どういうことだ?これも否定形だから、指輪を隠すということかな。いけない主婦なのかもしれない。私人から公人になることと読んでいるな。後にリウマチを隠すための手袋だという証言もあり、けっこう悲惨な句に思えてくる。不倫の方がまだ明るさがあるような。

たらちねの蚊帳の吊手の低きまま

これも長塚節の短歌の本歌取りだという。

垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども

短歌よりも情景で「低きまま」だけで老いを表しているのが素晴らしいという。短歌の方は七七の余計な分感情が入っているという。俳句と短歌の違いが分かるという。短歌のほうがいいと思うが。というか汀女は短歌をやりたかったのかもしれない。短歌から俳句に衣替えする俳人は多いというから。そんな郷愁(センチメンタリズム)みたいなものか。

俳諧志(宗祇 宗鑑 芭蕉)

加藤郁乎『俳諧志』は江戸俳句の諧謔性や滑稽味というようなもの。俳句が俗の世界だという。雅とは対象的な江戸俳諧師の仕事。

祇や鑑や髭に落花を捻りけり  与謝野蕪村

「落花」に俗を見るのは句作という俗っぽさなのだ。「祇」は「宗祇」で「鑑」は「宗鑑」のこと。

カメラ小僧むかしパンツにいま落花 宿仮

落花の俗っぽさの俳諧。

芭蕉は「宗祇」「宗鑑」「守武」を三翁三聖人と称えた。

世にふるもさらに時雨のやどりかな  宗祇
世にふるもさらに宗祇のやどりかな  はせお

世にふるもさらに宿仮のやどりかな  宿仮

自画自賛してしまう。

宗鑑が姿を見ればがきつばた  実隆
 のまんとすれそ夏の沢水   宗長
蛇(きちはな)に追われていづちかへるらん  宗鑑

そして芭蕉が宗鑑を追悼して詠んだ句。

有がたきすがた拝まん杜若  芭蕉

宗鑑はあまりにも痩せていたので「餓鬼つばた」とあだ名を付けられたという。

月に柄をさしたたらばよき団扇哉  宗鑑

川名大『昭和俳句史』俳句の構造的な認識と方法

入沢康夫『詩の構造についての覚え書』で作者、語り手、作中主体(語り手の「私」)は別なのだという詩の構造を述べたのだが、日本の短歌や俳句ではそれらが統一主体とみなされていた。

その意識の違いが境涯俳句の「俳句は私小説」だという一派と「俳句はフィクションである」という新興俳句系の分かれ目だった。そのことで寺山修司は和歌の本歌取りという方法でフィクション性の「私俳句」を創作したのだが理解を得られなかった。そして俳句の閉鎖性に辟易して、表現の場として短歌に進むのだった。

作者と発話者が区別がない俳句

いくたびも雪の深さを尋ねけり  正岡子規

俗に言う私小説的な俳句で解釈としては作者の伝記を知っていたほうが深く読める。

桐一葉日当たりながら落ちにけり  高浜虚子

この句は語り手で虚子(わたし)が黒子となり三人称(神の視点)で語っているのである。ただそこにも注意深く読むと一人称の語りが透けて見えるという。この句の場合「落ちにけり」という詠嘆が虚子の内面が透けて見える。この方法は境涯俳句や客観写生に多いという。

作者と登場人物が明らかに違うと分かる俳句。

大戦起こるこの日のために獄をたまわる 橋本夢道

作者の橋本夢道と獄に入れられた人物は別人。

わすれちゃえ赤紙神風草むす屍  池田澄子

作者は池田澄子だが私は逆説を述べている。現代人の忘れっぽさを皮肉った句。

南国に死して御恩のみなみかぜ  攝津幸彦

これも死人がかたるわけがないので作者と死人は別人である。戦争への社会詠は実際に体験者でなくとも戦争俳句は詠めるのだ。そのことで戦火想望俳句で衝撃的に登場したのが三橋敏雄である。

手を上げて此世の友は来りけり  三橋敏雄

あの世からこの世に友はくるはずはないという歌で、友は英霊となった親友を想う浮かべるのだろう。

切株は じいんじいんと ひびくなり  富澤赤黄男

「じいんじいん」というオノマトペは「切株」と共にメタファーである。「寺院寺院」とも読めるかも。

三番目は明らかに作者と登場人物が別だとわかるもの。二番目と同じようなのだが、二番目は作者と登場人物が重なるように書かれている。三番目は作者と語り手がはっきり別人のように書かれている。しかし、俳句や短歌ではこの例は極めて珍しいという。

蛇を知らぬ天才とゐて風の中  鈴木六林男

これは意味が良くわからん。鈴木六林男はかなり前衛的なのか?

藤田湘子は作者と登場人物の区別は有効だとしながらも発話者と作者も同一人物にしているので、それが俳句の限界のように捉えられている。一人称を三人称的神の視点で考えれば、一人称の我も作者とは別人でフィクション上のことである。その思考はモダニズムの小説を読んでいれば当たり前の理論であり、作者と一人称の私は別人で虚構のために作者が用意した登場人物であるのだ。それは作中主体を作者と同じように受け取ってしまう日本の短詩の遅れだろうか?短歌では実験的な塚本とか寺山が出てきたので、例えば穂村弘の作中主体を穂村のフィクションと考える事ができる(同じだという人もいるだろうが)。鈴木六林男の俳句なら天才=鈴木六林男ではないのだ。これは言語学の理論みたいだが、俳句の批評が内輪だけなのでそうした理論に疎いような気がする。

夏目漱石『こころ』で考えればわかりやすい。漱石と先生の関係は作者と語り手なのだが『こころ』という小説の中では手紙の部分が先生の一人称であり、それを漱石自身だと重ねられないということなのだ。何故なら手紙以外は三人称的な私(一人称)で神の視点で描かれている。漱石が問題にしたのは明治の精神だが、それが漱石そのものの思考だと考えるのはもうひとりの登場人物である「私」の視点があり、それが先生への批評として機能しているのである。この「こころ」を漱石の心だと受け取ってしまうのが、単純な心しか問題にしていないので、先生のこころ、私のこころ、漱石のこころと入り組んだ『こころ』という作品なのだ。

俳句の省略

論理はわかりいくいので実践的に省略の効いた名句50句を読んでいく。

山寺の仁王たじろぐ吹雪かな 幸田露伴

吹雪が季語に詠嘆のかなは切れ字。山寺の仁王たじろぐような吹雪の意味で直喩かな。山寺の仁王と吹雪を対になっていて「たじろぐ」で繋いでいると見ればいいのか?僧ではなく仁王を詠んだことがポイントだという。

山寺の坊主たじろぐ吹雪かな だめ句

咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり  高浜虚子

桜の満開を言っているのだが、もっと代わりの言葉があるような気がする。こぼるゝは梅のほうがいいのじゃないのか?下句は否定の詠嘆。「も」という助詞。「も」~否定形はなんかあったな。自己を投影しているから「も」なのか?いまが絶頂だと。

咲き乱れ中空も花染にけり 宿仮

桃食うて煙草を喫うて一人旅 星野立子

ただごと俳句のような気がするけど自由が一番という俳句なのだそうだ。オヤジの前ではそうは出来ないのかな?

耳塚の前ひろゞゝと師走かな  川端茅舎

よくわからん。耳塚というのは戦国時代とか負けた武士の耳とか切り取ったものを弔ったものだが、師走の風が冷たく寂しい様子をひろびろという言葉で描いているという。言葉が足りなくてよくわからんよな。

兜虫黒き光を放ち歩む 京極杞陽

兜虫の威風堂々とした姿を端的に表現しているという。

忘れ羽子少し汚れて美しや 上野泰 

これもわかりにくい句だった。正月の羽子板が汚れているけど美しいということのようだ。だから何?だよな。そうか汚れが美しいのではなく思い出が美しいということだった。言葉足らずだよな。それに羽子は板ではなくて羽根のほうだぞ。省略し過ぎだよな。

わが机妻が占めをり土筆むく  冨安風生

これはいい句かな。ただごと俳句に近いけど、妻の強さが出ている。夫婦の関係が良好なんて言っている。違うだろう。妻に文句を言いたいのだろう。

板買うて釘が足らぬや小屋の秋  永田青嵐

これもそれがどうしたのただこと俳句だよな。関東大震災時の東京市長の句だそうだ。足らないのは言葉も足らなかった。

小鼓の稽古すませし端居かな 松本たかし

端居は端っこに座っていること。季語がないようだが「稽古」か。「稽古始め」で新年。

スケートや右に左に影投げて  鈴木花蓑

これはわかりやすくて面白い。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?