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雑記 16 / 無限の前置き

こうして毎日いろいろ書いているけれども、この言葉というツールの不自由さは、自分自身が「書く」という行為をうまく使いこなせていないからだろう。
僕はヴィトゲンシュタイン主義者なので(雑な言い方だ。ヴィトゲンシュタインが嫌うような表現)、言葉による記述には必ず限界があると考えている。
そして、美と倫理は言語の外側にある。
故に、言葉で芸術について記述してもそ絶対に、完璧に記すことはできない。
だからこそ、その外側にあるものを想像するために、できる限り誠実に丁寧に編まれた言葉が必要なのだと思う。
その作品だけの、あるいはその作家だけの、必然的で真に個性的な部分は言語の外側にある。言葉では表せない何かの輪郭をぼんやりとでも浮かび上がらせるために言葉を使わなければいけない。“語りえぬものについては沈黙せねばならない”のかもしれないけれど、語りえぬもののために、語りうるその外側を語り尽くさねばならない。

会話という場においては、言語情報以外にも身振り手振りや、話すトーンやスピード、表情など、言語以外の情報量が圧倒的に多い。わけのわからないことを言っても、妙な言葉遣いをしてしまっても、相手との信頼関係があればなんとなく伝わってしまう。「伝わっている」という感覚が得られる。
しかしこうやって文字情報だけで記載していると自分の使う言葉の定義ひとつひとつが気になってくる。その語彙を使うことに対して自分が意図している内容と、一般的なその語彙の受け取られ方は果たして一致しているのか。そこに不安があるから「自分はこの意味で使いますよ」という前置きが必要になる。説明が直接的ではなくとも、自分が言わんとすることはこういうことですよ、という方向づけを示す意味でのリード文が必要になる。
だからいつも本題になかなか辿り着けない。作業量としては毎日そんなに負担にはならず、かつ適度な思考の負荷となる程度である原稿用紙三枚分前後。これでは全く本題に辿り着けない。

今もそうだ。毎日前置きばかり書いている気がする。
アキレスと亀みたいに、永久に本題に追いつけない。距離は縮まっているはずなのに。

解決策としては①開き直って結論の部分から書いてしまって膨らませる②連載形式の二種類が思いつく。しかし①のパターンだと結局分量はめちゃくちゃ多くなりそうだ。あるいは結論を書いたことに満足してそこから先に進めなくなるかもしれない②のパターンだと、自分が述べることの結論がはっきり見えていること、全体の分量と内容が組み上がっていることが前提となる。いや、着地点を見据えずにやるのも手かもしれない。わからなくなってきた。試してみるしかない。他にあるなら教えて欲しい。文章が上手くなりたい。思っていることを自由自在に書き表して、美しいことや楽しいこと、そして芸術についての話がしたい。

しかしこの原稿用紙三枚分程度の分量も、最初の一週間くらいは面倒だったけれど、もう当たり前の長さとして体に馴染んできた。上手い下手はさておき。「書く」という行為そのものが与える自分への負荷は減ってきている。
では今度は密度とリズムをいかに磨くか。難しい話だ。どうやったらいいんだろう。

ともあれできることは毎日、考えながら、少しづつの上達を目指して、書きたいことを誠実に書くことが一番のトレーニングだろうと信じる。

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