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雑記 8 / ヴィトゲンシュタインと作者の物語

大学生の頃は哲学を専攻していた。
たぶん三年生の頃だったか、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読む授業を選択した。
その時の教授、K先生が最初の授業で語っていたことが今でも頭にこびりついている。あまり真面目な学生ではなかったけれど、この第一回の話に惹き込まれて、しっかり通って関連書籍もちゃんと読んだ。(ちなみに「ウィトゲンシュタイン」という表記の方が一般的だが、K先生に倣って僕はずっとヴィトゲンシュタインと書くことにしている)
その最初の授業の、最初の話はこんな感じだった。

「『論理哲学論考の命題1は”世界は”という言葉で始まります。原文であれば"Die Welt ist"、英語であれば"The world is"です。この人はなぜ、初めて出版する書物の最初の一言を"世界は"などという大それた言葉で始めなければいけなかったのでしょうか?これを記した時にヴィトゲンシュタインは20代の終わりでした。この論考は7つの命題で成立しています。この7つの命題で哲学的な問題は全て解決した、と彼は言います。7つ目の命題は"語り得ぬものについては沈黙せねばならない"という有名なものです。私は専門的に彼の哲学を研究をした人間ですから、この証明課程における論理式も命題関数も当然理解しており、もちろん皆さんにその構造を説明することができます。しかし、みなさんがこの論理を理解したところで、それが果たしてヴィトゲンシュタインが本当に言わんとしたことを理解したということになるでしょうか?この論考における哲学的な証明を理解したところで、ヴィトゲンシュタインが何故"世界は"などという言葉で始まり、最後には沈黙を要求する本を書かねばならなかったのかを理解することにはなりません。その動機の部分、あるいはこれを書くことで本当に言わんとしたこと、本当に解決しようとした問題は何だったんでしょうか?もう一度言います。なぜヴィトゲンシュタインは"世界は"などという言葉でこの本を始めなければならなかったのでしょうか?その根底の部分を考えようとしないで、論理形式だけを理解することが果たして哲学と呼べるでしょうか?本当のことは当人にだって分からないことかもしれません。それでもなお、そこについて問う必要があるのではないでしょうか?」

もう十数年前のことで、記憶の中で反芻するうちに僕の解釈もいくぶん混ざってしまっているかもしれないけれど、大筋ではこんな内容だったはずだ。

現代の作品論では作者と作品は切り分けて考えることが普通だ。結びつけて考えるにしても、一旦は切り離してから再構成する。文学部の授業では最初にそれをやらされた。一年目に覚えたそれを覆すようなこの言葉は強烈だった。そして、哲学科というわけの分からない論理と倫理と形而上の事柄に揉まれて混乱していた若者にとっては、「読む」という行為のシンプルなところに立ち戻らせてくれる救いでもあった。「そのように読んで良いのだ」と背中を後押ししてもらったような感覚、というのが正確かもしれない。今でもそんな風に作品/作者と向き合っている。作品そのものと同時に「なぜこの人はこの時代に、このようなものを作ろうとしているのか?この人にこれを作らせる根本の動機はなんだろう?」という点に興味がある。それはその作者個人が抱える物語の話だ。結局のところ、僕は物語が好きなのかもしれない。芸術表現の根底に存在している、その人だけの物語。言語という形でなく、陶芸や絵画、音楽や彫刻、あらゆる形式で表現されるその人だけの物語が必要なのかもしれない


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