本の価値、人の自由、そして夢の木坂

(「新潮」2017年4月号に掲載)

本の書き手に対して、本はすごいけれど本人は普通、といった評がたまにあるが、それは自然なことだろう。本の価値は、書き手が人として既にもっていた価値の一部を切り出したものではない。自分よりすごいものが出てくるのでなければ、わざわざ本を書く甲斐がない。

長い時間をかけて書いた本は、とくにそういった印象を与える。私が去年出した本(『時間と自由意志――自由は存在するか』筑摩書房刊)は執筆に十年ほどかかったが、ここまで来ると、私はほとんど飼育係のような心境だ。つまり、草稿が独立した生きもので、私はそれに餌をやったり、ときに看病したりしながら、十年の成長を見守ったという感じである。

だから私はこの本を、自分と関係なく褒めることもできる。私は飼育係としてそれなりに頑張ったと思うが、この本のそれ自体の価値は、私の人間的な価値を超えている。自由意志論の本としては数年に一冊の出来だろうし、世界的にも新奇な議論がいくつか含まれているようだ。

同書の第一章では、「分岐問題」という問いが提起されている。私たちは普段、未来の複数の可能性を自ら選ぶものとして人間を理解しているが、それは事実だろうか。歴史を可能性の樹形図――未来に向かって枝分かれしていく――として描くとき、ある一つの可能性の枝を現実の枝にする要因(人間の決断?)は、樹形図のどこに位置するのか。

そんな要因は存在し得ない、というのが第一章での結論だ。それは、人間以外の何か――自然法則や神――によって未来が選ばれているからではない。次の単純な理由から、樹形図上のどの時点にもその要因を位置づけることはできない。

分岐点もしくは分岐点より過去にそれが在ったなら、それは歴史の選択に何の役割も果たしていない。分岐したいずれの未来から見ても、それは過去の一部であり、それが存在するか否かと未来の内容は無関係だからだ。しかし、分岐点よりも未来にそれが在ったなら、それはやはり明らかに歴史の選択と無関係である(既に選択は済んでいるため)。要因と見なされている何かが人間に関わるものであるかは、この結論に影響を与えない。

以上の簡明な論に対し、すぐに思いつく種類の反論については、同書で網羅的に応じられている。単純で素朴に見える主張を、詳細でしつこい検討によって育てていくのは、哲学の大きな喜びと言える(反対に、粘り強い検討なしに深淵な主張のみ述べようとするのは、哲学とかけ離れた作業であるが、多くの人は哲学をそのような作業と混同している)。

最終章にあたる第四章では、自由でも不自由でもない――無自由な――ものとしての人間を、それでも自由なものと見なして私たちが生きていかざるを得ない理由が、仮説的に論じられている。つまり、人間の自由という錯覚が、公共性をもっている理由が。

たとえば他者に殴られたとき、なぜ私は腹を立てるのか。たんに痛いからではなく、殴らないこともできたのに殴ったという理解が、その立腹の背後にある。すなわち未来選択の要因が――殴る可能性と殴らない可能性のうち前者を現実のものとした要因が――その他者のなかにあるという信念が、私の立腹をより強固にしている。

このとき、きわめて重要なのは、他者の心の不可視性だ。他者の心がもし見えたなら、そんな要因など存在しないこと、それが時間的位置を持ち得ないことが、白日のもとに晒されるだろう。他者は先述の可能性を選んでなどいないという事実と向き合うことになるだろう。

しかし他者の心は見えず、むしろ、そうした不可視性の持ち主を、私たちは「他者」と呼ぶ。かくして殴打への動物的な怒りは、他者の不可視な領域に「要因」を捏造することを通して、人間的・倫理的な怒りと結託する。憎むべきその他者は、殴らないこともできたのでなければならない。たとえ、それが錯覚であっても。

人の幼児への教育とは、この錯覚が錯覚でない世界に彼らを参入させる営みである。養育者に叱られた幼児は、そのときやっていた行為をやらないこともできたのだと、証明なしに信じなければならない。他者から見た他者である自分が、その不可視の領域に「要因」をもつ存在だと信じること、そうした信仰の伝承によって、彼らは人の仲間入りをする――。

ところで、同書に関する話を『新潮』誌に書けたのは感慨深い。草稿時点での同書の題は『分岐する時間』というものだったが――分岐問題に焦点化した題――この題は新潮社刊『夢の木坂分岐点』(筒井康隆著)へのオマージュであった。二十年ほど前、赤い背表紙の文庫版でこの小説を読んだときの高揚は忘れがたく、時間と自由意志について考えるようになった個人史の重要な一部を占めている。

『夢の木坂分岐点』を読まれた読者ならご存じの通り、複数登場する主人公は、ある意味ではただ一人である。氏名の文字が少しずつ違う彼らは、別々の人生を生きる人物でありながら、同時に、ある一人物が進み得た多様な人生をそれぞれ体現している。発明の特許を取ったか否か、文学賞に入選したか否か、作家として食べていけたか否か等々の可能性の分岐に応じて。

同一人物の諸可能性でありながら、氏名が微妙に異なることを通じて、この小説は非情な真実をも描いている。すなわち、ある人生を生きる人物にとって、他の人生を選ぶことは、本当はあり得なかったという真実を。小畑重則にとって大畑重則の人生は、じつは可能なものではない。小畑重則は大畑重則でないという、端的で不可謬な事実によって。可能性の樹形図に見えたものは、それぞれ個別の単線を重ね描いたものにすぎず、小畑重則と大畑重則もまた、とてもよく似た別人にすぎない。

筒井康隆氏の最新長篇『モナドの領域』――これも新潮社刊である――は『夢の木坂分岐点』の神学的変奏と見て良いだろう。この呼応と関連して、最後に拙著をもう一冊挙げることを許して頂きたい。昨年、前掲書に先んじて出した『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』(太田出版刊)は、前掲書と呼応して、錯覚かもしれない自由のなかでのみ成立する幸不幸を論じている。最終章でそのことを明記する際、私は『モナドの領域』の読解というかたちでそれを行なった。これは私的で間接的な『夢の木坂分岐点』への返礼でもある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?