青山拓央

哲学者。京都大学 教授。著書に『時間と自由意志』『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』『分…

青山拓央

哲学者。京都大学 教授。著書に『時間と自由意志』『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』『分析哲学講義』など。ツイッター https://twitter.com/aoymtko/

最近の記事

死者の時間と他者の時間

(「PAPER SKY」2007年4月号に掲載) 自分の死は、自分にとっては自分の死だが、他者にとっては他者の死である。しかし、だからといって、自分の死と他者の死が同じように理解できるわけではない。自分の死と他者の死は、まったく違うあり方をしている。 話を進めるきっかけとして、ジャンケレヴィッチという哲学者の考えを紹介しよう。彼は死を、三つの人称別に分類している。この分類はさまざまな著作で引かれているため、ジャンケレヴィッチの名は知らなくとも、その内容は知っているかもしれ

    • ストーンズ、ザッパ、文章の書き方

      音楽家のフランク・ザッパと哲学者のデイヴィド・ルイスは、僕のなかで昔からなぜかその作家性が結びついている。十年ほど前に出版した『分析哲学講義』にはその作家性を取り込もうと意図したが、これはひとには伝わりづらい話。 二十歳のころ、頑張って貯めた三万円弱をもって東京に行き、フランク・ザッパの十二枚組ライブ盤セット("On Stage" シリーズ)を買ったことがあったが、今や、それは全部サブスクで聴ける。でも、あのころの僕と同じくらい熱心にあれを聴き続けるのは、サブスクの時代には

      • 自由意志論についての4つの覚書

        1 科学が自由意志を否定するかを論じる前に、科学が自由意志を「肯定」するとしたらそれはどんな状況か(どんな実験結果が出ればそう言えるのか)を論じるべきだろう。もし、それがどんな状況なのかを言えないのだとしたら、《ある実験結果によって自由意志が否定される》といった形の議論には、疑わしい部分がある。つまり、そこでの自由意志の否定は、その実験結果によってではなく、より一般的な概念分析によってすでに果たされている可能性が大いにある。このとき、なぜ、その実験結果が自由意志の否定に役立

        • 本の価値、人の自由、そして夢の木坂

          (「新潮」2017年4月号に掲載) 本の書き手に対して、本はすごいけれど本人は普通、といった評がたまにあるが、それは自然なことだろう。本の価値は、書き手が人として既にもっていた価値の一部を切り出したものではない。自分よりすごいものが出てくるのでなければ、わざわざ本を書く甲斐がない。 長い時間をかけて書いた本は、とくにそういった印象を与える。私が去年出した本(『時間と自由意志――自由は存在するか』筑摩書房刊)は執筆に十年ほどかかったが、ここまで来ると、私はほとんど飼育係のよ

        死者の時間と他者の時間

          哲学の文章を精確に読むために

          《哲学者にはあらかじめ守りたいものがあり、それを守ることを目的として理屈を並べている》という思い込みは、哲学の文章を誤読させやすい。実際には書かれていないことを行間から変に読み取ってしまい、それへの攻撃欲が増すことで、文章を精確に読めなくなってしまう。 例をひとつ挙げておこう。リベットの実験によって自由意志は否定されたという話は、メディアでよく紹介される。だが、詳細を見ていくと、この話には多くの飛躍があることが分かる。そこで、幾人かの哲学者は、リベットの実験からは自由意志が

          哲学の文章を精確に読むために

          哲学者Aと哲学者B

          (2017年「京都大学総合人間学部広報」に掲載) 時間学研究所という珍しい研究所が山口大学にあり、そちらから着任して数ヶ月が経ちます。私はこれまで哲学の分野にて、時間・自由・言語などについて研究してきました。分析哲学の入門書を出版していますが(『分析哲学講義』ちくま新書)、分析哲学という分野に特化した研究者とは言えず、自分自身も、特定の分野にとらわれない「たんなる哲学者」でありたいと願っています。近年の研究内容については、『時間と自由意志:自由は存在するか』(筑摩書房)、『

          哲学者Aと哲学者B

          幸せで、それを知っているなら

          (「群像」2010年3月号に掲載) 哲学者のトマス・ネーゲルはこんな話を書いている。――聡明な大人の男性が頭に怪我をし、幼児のような精神状態になってしまった。しかし彼は満ち足りた「幼児」で、みんなに優しく世話をされながら、食べたいときに食べ、遊びたいときに遊んで暮らす。彼の心の中だけを見るなら、幸福感に包まれている。 それでも私たちはふつう彼を不幸だと思うだろう。それは、いったいなぜなのか。ネーゲルの答えはこうである。聡明な大人として生きられたはずの彼は、さまざまな幸福の

          幸せで、それを知っているなら

          コラム「昨日読んだ文庫」色川武大著『怪しい来客簿』

          (毎日新聞 2016. 3. 6. 朝刊に掲載) 色川武大の『怪しい来客簿』(文春文庫)をほぼ二十年ぶりに再読する。やはり、べらぼうに文章がうまく、べらぼうに心の一点が弱い。その弱さは多くのひとに共感を得られる種類のものではないが、それはちょうど、他人の毒素を体内に射込み、自分の毒素と中和させることで、ようやく生きていけるような弱さである。 同書の『たすけておくれ』という掌編中の「私」は、胆石をこじらせて入院する。執刀予定の「名医」について、「私」はこんな印象を抱く。「と

          コラム「昨日読んだ文庫」色川武大著『怪しい来客簿』