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#ネタバレ 映画「淵に立つ」

「淵に立つ」
2016年作品
四本引いたら川の字にならない
2016/10/24 7:16 by さくらんぼ (修正あり)

( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)

犯行理由までは語られていませんでしたが、昔、人を絞殺して逮捕され、刑期を全うして出所したばかりの八坂草太郎(浅野忠信さん)と、その時、被害者の足を押さえていた共犯者・利雄(古舘寛治さん)が話の中心人物です。

八坂が「共犯がいたこと」を隠していたため、利雄は捕まることもなく、今は静かに金属加工業を営み、結婚して子供(小学生の女の子)もいる平穏な家庭を作っていました。目立ぬ町工場のおっちゃんになっていたのです。利雄は八坂の服役中、関係がバレるのを恐れてでしょう(利雄の妻も知らない)、一度も面会には行きませんでした。

そこへ出所した八坂が突然訪ねてきて頭を下げ、「しばらくの間住み込みで働かせて欲しい」と乞うのです。「共犯であることを黙っていたから、お前の現在の幸福がある。これぐらいの面倒を見ても当然だろ」と、内心考えたのでしょう。

①「 でも、それだけではすみませんでした。八坂は利雄の妻を寝取ろうと計画し、未遂に終わると、今度は腹いせに、昨日まで可愛がっていた娘を撲殺しようとしたのです。まるで映画『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのように、すべてを乗っ取るつもりだったのかもしれません。それでも、利雄は「共犯」であることを恐れ、妻は「浮気」がバレるのを恐れ、なかなか警察沙汰には出来ないはず。まさに鬼畜のごとく所業です 」。

追記 ( 真実はどこにある ) 
2016/10/24 14:02 by さくらんぼ

しかし、良質な刑事ドラマでは、凶悪な犯罪にもたいてい裏があって、そこには「哀しい真実」が流れているものです。刑事ドラマではありませんが、この映画「淵に立つ」も同類なのかもしれません。

そう思うと、八坂の行動は、次のようにも読み取ることが出来ます。

②「 八坂は刑務所でも模範囚でした。まるで健さんのみたいに堅気衆より礼儀正しいぐらいの男。被害者の遺族に手紙を定期的に送ったり、写経をしたり、子どもにやさしくオルガンを教えたりもします。

不倫の件も、八坂が先に口説いたわけではありません。利雄の妻が八坂に興味を持って積極的に接近してきたのです。まるで寅さんに近づく女性のごとく。そしてある日、好意に気づいた八坂の求めに応じ、素直にキスを許した。家庭内での八坂に罪があったとしたら、それは『不倫』です。

そして何日かの後、事件のあった日、八坂が公園で一人パンと牛乳の昼食をしていると、向こうの木陰でカップルがHをしていました。それを見て欲情した八坂は、家に戻ると利雄の妻に体を求めたのです。しかし妻は、キスまでは許しても体は拒み、八坂をひどく突き飛ばしました。家具に頭をぶつけて転がる八坂。

気まずい雰囲気から逃げるように八坂が表に出ると、娘が数十メーター先を遠ざかっていくのが見えました。

先ほどの痴話げんかを、帰宅したばかりの娘が目撃したようです。『まずい…娘に見られた。ショックを与えてしまったかも』。直感でそう思った八坂は追いかけます。

やがて気づいた娘はダッシュ、八坂も遅れまいと走ります。それを見て、ますます娘は必至に。

やがて公園を横切って向こう側へ、そこは行き止まりのフェンスです。

娘はそれも乗り越えようとしますが、あわてて高所から落下し(あるいは全力疾走のまま転倒)、頭を打って大怪我をし、気絶します(後にこれがもとで重度の障害者に)。

そこに到着した八坂は途方にくれます。

すぐあとを追いかけてきた利雄も娘を見て狼狽します。

あのとき八坂は利雄に「さかんに何か説明したげ」でした。

殺気立っているであろう犯行直後の暴行犯の雰囲気とは違うようでした。

八坂は説明しようと二度、三度試みましたが、利雄のあまりの狼狽ぶりを見て、「どうせ前科者の言う事など信じてもらえない」と悟ります。

その直後に利雄の妻も到着しますが、「つき飛ばした腹いせに娘を撲殺しようとした」と思われるのが落ちだと、これも無言で通りすぎます。走って逃げるのではなく、歩いて立ち去ったのです。

そして八坂は行方不明となりました。彼は模範囚でしたが、あのとき初めて、過去のすべての罪を心底悔いたのです 」。

映画のラスト、八坂が橋から川に身を投げる幻想的なシーン現れますが、彼が「自己嫌悪」からそうしたとしてもおかしくないでしょう。けっして利雄の家庭をめちゃくちゃにするために来たのではなかったのです。しかし、結果は取り返しのつかないことになってしまいました。

この映画「淵に立つ」も、いろんな角度から語れる映画でしょう。あるいは重すぎてなにも語れない映画かもしれません。

いずれにせよ今年観るべき一本の作品に入れたいと思います。これは、とりあえずのレビュー。

★★★★★

追記Ⅱ ( 忘れものは後から気づく ) 
2016/10/24 14:13 by さくらんぼ

映画の冒頭、共犯者・利雄の娘がオルガン練習をするシーンが出てきます。途中から懐かしい「振り子式メトロノーム(今は電子音式もあるらしい)」を動かして。

しばらくの後、母親が「ごはんですよ~」と呼ぶと練習をやめて行ってしまいます。

でも、楽譜は片付けてもメトロノームを止めることを忘れていました。スクリーンの左上でカチカチと振り子は揺れ続けています。やがて忘れたのに気がついた娘は戻ってきて、「手で振り子をつかんで」止めました。あの「振り子を止める」とは「絞殺するときに、共犯者がバタつく足を止めた」ことの記号ですね。

そして娘は、振り子を止め忘れたことに後から気がつきました。つまり「忘れもの(大事なこと)は後から気づく」というのが主題の可能性があります。主犯の八坂も、「臭い飯を食っていた間(服役中)」に、共犯者の事を思いだしていたはずですから。

追記Ⅲ ( 作業着とカッターシャツ )
2016/10/24 14:40 by さくらんぼ

チラシの写真に「四人がピクニックに行き、河原で寝転んでいるシーン」があります。グレーの作業着を着たヒゲ面の男が共犯者・利雄で、白いカッターシャツの、目の鋭い男が主犯・八坂です。

「ブルーカラー対ホワイトカラー」などという偏見話ではありませんから、誤解の無いように聞いて頂きたいですが、作業着のグレーは文字通り「黒でもなければ白でもない逃亡中の共犯者」の記号でしょう。対する白いカッターシャツは「罪を償った者」の記号。

ですから、映画の記号で言えば、作業着を着ている「利雄の方が悪人」と言うことになります。そして、その「グレー」が彼の家庭を破滅に導いたのです。妻も不倫という「グレー」が娘を障害者にしましたね。その後の妻は神経症にかかり「手を洗い続ける」ようになりました。

この逆転は、寅さん映画で「往々にして、寅さんよりも、寅さんを小ばかにする面々の方に問題がある」のと同じかもしれません。

追記Ⅳ ( 偶像崇拝 ) 
2016/10/24 14:53 by さくらんぼ

あの町工場のリビングには、ステンドグラス風の窓がありました。そしてプロテスタントの家族です。つまり、あそこは教会の記号のようです。だからピアノではなく懐かしいオルガンなのでしょう。すると八坂が頼ってくる裏解釈も成り立ちます。

プロテスタントでは偶像崇拝の禁止が徹底されているようです。でも、利雄の妻は「白いカッターシャツとオルガンの上手な八坂」に「神父」を感じてしまい、事実上の「恋という偶像崇拝」をしてしまったのでしょう。

追記Ⅴ ( 八坂の息子 ) 
2016/10/24 16:01 by さくらんぼ

映画も後半になると、今度は八坂の息子が出てきました。彼は幼くして父と別れ、父の事をあまり知りませんが(事件のことも)、就活でこの町工場を知りやってきたのです。父との接点を求めて。

しかし、利雄夫婦は後に八坂の息子と知って驚愕し、「悪夢の再来だ」と思ったかもしれません。実際、夫婦が目を離したすきに重度障害者の娘に悪戯をしようとした事件がありました。

しかし、それも父とおなじように誤解されたのだと思います。

あれは眠った娘を見て「死んでしまったのか?」と心配になり、「息」を確認しに来たのです。監視カメラがあることを知っていながら、なんの対策も無しに犯行に及ぶはずがありません。

八坂の息子は、父が家出をした後、独りで寝たきりになった母を介護していました。だから若くして、その辺りの気持ちが良く分かる人なのです。

彼は絵を描くことが好きです。「動画」に対し「画像」の世界ですね。このシナリオは利雄が「被害者の足を止めた」、利雄の娘が「メトロノームを止めた」との関連付けかもしれません。

でも、八坂の息子は利雄の娘にイヤリングをプレゼントしました。私の記憶が正しければ「揺れるもの」だったように思います。もしそうだとしたら、利雄が「足を止めた」のとは正反対のシナリオですね。

八坂の息子は、絵を描く為に対象物をよく観察する過程で「人間は微動するもの」だと学んでいたようです。だから彼女の動きを増幅し、美に変えるイヤリングを与えた。

八坂の息子は、利雄の娘にオルガンを教えた父とおなじように、今は重度障害者になってしまった娘を、偏見のない暖かな目で見ていたのです。

しかし、父と息子の両方を悪魔だと信じている利雄夫婦は、誤解しかできず、ひたすら悲劇に向かって進んでいきます。

あの河原でのピクニックのシーンは、ラストにもう一度出てきます。

そして、そのとき利雄は川で溺れてフリーズした家族を生きかえらそうと、懸命に人工呼吸をすることになるのでした。「足を止めた」事の罰ですね。でも、今度は「動かそう」としている。この辺りの因縁は「愛の契約を死んでも守らせられる映画『A.I.』」をも思いださせました。そう言えば、これはフランスとの合作映画でしたね。

追記Ⅵ ( 娘の怪我は「トラックのひき逃げ」か ) 
2016/10/26 15:22 by さくらんぼ

>やがて気づいた娘はダッシュ。八坂も遅れまいと走ります。それを見て、ますます娘は必至に。やがて公園を横切って向こう側、そこは行き止まりのフェンス。娘はそれも乗り越えようとしますが、あわてて高所から落下し(あるいは全力疾走のまま転倒)、頭を打って大怪我をして気絶します(後にこれがもとで重度の障害者に)。(追記 〔真実はどこにある〕より)

ここは娘が頭を怪我するシーンですが、映画では肝心の決定的瞬間がカットされているので、このように推理するしかありません(もし原作小説に書かれていたとしても、それは映画のモチーフにすぎず、小説に正解を求めることは情報の混乱を招くことにもなりかねません)。

ですから映画のみを元に、もう少し推理してみます。

①そもそも肝心のシーンなのにカットされている理由は、観客に「原因を隠す必要がある」からだと思います。

②さらに頭を怪我した娘は、内出血などで脳に障害を負ったのでしょう。以後、放心したように天に向かって目を剥いたまま、ときどき「あ~、う~」とうめき声を上げるだけの、車いす生活者になってしまいました。これも原因を「隠すため」ですね。

映画の記号で言えば、監督は①②を持って「怪我の証言が不可能」だという解釈を求めているのだと思います(もちろん現実には、一見そんな風に見える方の中にも、タイピングなどで健常者と同じように文章を書ける方もいらっしゃるでしょう)。

それでは、なぜ「隠す必要がある」かと言えば「観客に八坂が犯人だと誤解させるため」でしょう。映画を面白くさせるために。

では「怪我の真の原因は何か」。

消去法で行けば「自損事故」の可能性が高く、高所から落ちたとか、全力疾走で転倒したとか書いたわけです。

しかし娘が「トラックの通過音にひどく怯える」唐突なシーンがあったことを思いだしました。唐突なシーンこそ「重要なシーン」です。健常者の頃にはありませんでしたから。

それで再推理してみます。

もしかしたら、娘はあの日、全力疾走のまま道を横切ろうとし、「トラックに轢かれそうになった」可能性があります。でも、トラックが急ブレーキをかけたことで間一髪轢かれずにすんだ。しかしバンパーにぶつかって転がり頭を打ったのかもしれません。

娘はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと道を横切って公園へ入っていきました。娘は逃亡中だったわけですからね。トラックの運転手は慌てて飛びだしては来たけれど、歩いて公園へ消えていった後ろ姿を見て、ホッとし、何もなかったことにして逃げたのです。

でも、脳震盪、脳出血などをしていて、直後に、公園内で倒れた。

そこへ八坂が到着した。

追記Ⅶ ( ユニフォーム ) 
2016/10/27 10:43 by さくらんぼ

娘がオルガン発表会で着るステージ衣装は「真っ赤」でした。八坂が内側に着ていた「赤いシャツ」はその繋がりと考えるのが無難でしょう。

娘のオルガンの先生をしていた八坂が、発表会で着て応援するために、自分も同じ赤シャツを事前購入していたとしてもおかしくありませんから。

それはスポーツクラブのメンバーが「同じユニフォーム」を着るのと同じです。出所したばかりの孤独なおじさんにとって「帰属の対象」が出来たのです。

それは娘への「愛情の証」でもありました。きっと「姪っ子」みたいに思っていたのでしょう。

追記Ⅷ ( 映画「冬の華」 ) 
2016/10/28 9:17 by さくらんぼ

( 以下、映画「冬の華」のネタばれです。)

もしかしたら、映画「淵に立つ」は健さんの佳作・映画「冬の華」と関係があるのかもしれません。現時点ではオマージュとまでは言えませんが、監督の心のどこかに映画「冬の華」あって、無意識のうちにモチーフぐらいには、なってしまった可能性があります。

殺人を犯して服役し、模範囚として出所した孤独な男が少女を助ける。映画「冬の華」では音楽喫茶が教会の役目をし、二人はそこで音楽を聴きます。そして少女はヴァイオリンを習っていました。

映画「淵に立つ」では家庭が教会の役目をし、二人はオルガンを楽しみ、少女はそれを習っていました。

少女は男を慕い、男は少女を愛していました。男にとって少女は癒しであり、マリア様か天使のような存在だったのです。少女の前で彼は浄化されました。

どこかの映画館で二本同時上映すると面白いかもしれませんね。

追記Ⅸ ( オマージュの可能性も ) 
2016/10/29 22:46 by さくらんぼ

① 映画「冬の華」で、二人が音楽喫茶で聴いた音楽はチャイコフスキーのピアノ・コンチェルトでした。この「パッションな曲」のイメージカラーは「赤」です。この曲は先に娘のお気に入りで、後に健さんも聴くようになりました。そしてシャガールの絵画も出てきます。シャガールのイメージカラーは「ブルー」です。また「冬」のイメージカラーは「風花・雪」の「白」でしょう。

そして健さんの子分格の青年が、健さんの手紙を届ける内に少女と恋仲になりました。

映画のラストには、場末の街で健さんが義理のため人を殺めるシーンがあります。健さんの、なんとも言えない苦い思いのこもった表情のアップに、チラチラと風花が舞っていました。

② 映画「淵に立つ」では、チャイコフスキーのピアノ・コンチェルトは「赤いステージ衣装」と「赤シャツ」になっていました。シャガールの「絵画」は「河原での八坂と利雄の妻の逢瀬」のシーンですね。イメージカラー「ブルー」は「ブルーカラー・作業服」になっていました。さらに「川」(水色)も出てきます。そして「冬」のイメージカラー「白」は「八坂の白い服」ですね。

そして健さんの「子分の青年」は、娘に接近する八坂の「息子」として再現されていました。

中盤に、町工場の屋上、白いシーツが干してあるところで、利雄の妻が八坂の幻影に苦しめられるシーンがありました。ポスターにもなった「真っ白なシーツの向こうから八坂が顔を覗かせているシーン」です(この顔が映画「冬の華」のラストシーンの再現か)。

又、あの洗いざらしのシーツは「潔白・正義の色」でもあると同時に、「雪の白」でもあったようです。

それが証拠に、直後、一枚のシーツが雪のごとく地面へと落ちました。この一枚の落下シーンが「取って付けたようで」とくに怪しい。

そして映画のラストには人を殺める話も。

以上から、現時点では、この映画「淵に立つ」は、映画「冬の華」へのオマージュの可能性もあると思います。

追記Ⅹ (「最後の一葉」)
2018/1/29 9:57 by さくらんぼ

ところで、八坂の行方ですが、映画全体の雰囲気から、どこか場末で世捨て人のような暮らしをしているのだと思います。

そして偶然とはいえ、少女を障害者に追いやってしまった自責の念から、罪滅ぼしに、無意識にどこかで人助けをするチャンスを探しているのだと思います。

たとえばO・ヘンリーの「最後の一葉」みたいな事でもよいから、と。

追記Ⅺ 2022.10.16 ( お借りした画像は )

キーワード「公園」でご縁がありました。満開の花の、色とコントラストが心地よいですね。春5月でしょうか。少しだけ上下しました。ありがとうございました。



( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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