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いのちを考えるとき.1

私達の身近な存在となった腸内細菌。
先日この番組を見ていたのですが
「腸の中に飼っているイメージ」
というコメントがありました。

けどそれって、
まず肉体ありきで考えていますよね?

って、テレビに向かって突っ込んだ私。


ただ
目に見えない存在に
委ねるとっかかりになっているのかもしれない。
とも思いました。

ただしかし
こちらの記事をみて欲しいのです。

人間の死体はいつヒトからモノに変わるのか…解剖学者・養老孟司が「人間の死体には3種類ある」という理由


養老先生の記事ですが
タイトルつけた方は
一体誰なんでしょ??


ご遺体がモノに変わる
という決めつけから始まっているのが
私的には、ナンセンスでした。
これはどうなんだろう。マジで。
養老先生的にも嫌なんじゃないかしら。

そもそも

生物として命が宿っている生命体が
自分で生きているという認識である事自体が
ちょっと時代遅れですよね!


最初の腸内細菌。

あれ一つとっても
人が自分のちからで生きている訳ではない事がわかるのではないかなーと。

人間は、モノでもヒトでもなくて、
ただの生物なんだと思うんです。

微生物や細菌、そして同じような何かによって
このカラダが保持されるようにできている。

「私」という意識が私の体を保持しているのではなく、私の体を形成しているあらゆる生命体?有機物?によって
保持されているんだと思います。

生命体が循環するしくみ、
有機物が腐敗し養分に変わり、
またあらたな有機物となる
それこそがいのちなのだと。

肉体があるから、命なのではなくて、
その輪廻がいのちそのものなのだと。
だからモノになる事は決して無くて
また形を変えて有機物になる。

人間という有機物は
私自身ではなくて
私を形作ってくれている存在がある
と感じられるのです。

それを客観的にみたとき、
自尊心というものが
あまりに無意味なものだと
感じることができるのですよね。

だって

この形作られた私は
一体どれほど沢山の有機物のおかげで
形作られているのでしょうか。
数え切れません(キッパリ)

ある方が
人間は小さな宇宙だ
と言われていましたが
まさにその通りだと思います。

那由多の数の有機物によって
形成された一つの宇宙。

そのなかに、私、という意識体が
ポツンとあります。

この意識体は私です。
もし仮に、この意識体までも
何かによって操作されていた
としても。

そう考えてみると
自我を良くも悪くするも
意識体次第なんですよね。

そんな難しい事を考えてしまいますが
それは私が幸せだからなんだと思います。

私の体は
私のものではなくて
この地球のもので

きちんとした理由があって
このせかいに存在しているのだと思います。

これはこの宇宙全ての生命体にいえるのだと思います。

全てに感謝ですm(_ _)m

もっと読んでみたい!という気持ちが 何かを必ず変えていきます。私の周りも、読んでくださった方も、その周りも(o^^o)