「あわあわ」


『1973年のピンボール』(村上春樹)について

 好きな作家を聞かれてこの人の名前を挙げることはあんまりないし、新刊があまりに話題になるとスルーすることもある。でも、この人の新作がいつか読めなくなったらどうしよう、と思う。それが村上春樹さん。
 村上春樹作品が好きなのは、「働いて、生活して、生きていく」という基本のところが丁寧に描かれていて、そこを読むのが大好きだからだと思う。そういう描写を読むことが、自分の日常に絶対に必要だから、といいますか。

 私の仕事は、原稿書き・編集作業・考えごと・人に会うこと……をくりかえすわけだけれど、どれも中途半端にしか進まない日がある。本当は淡々と確実に進めたい。きちんとやるべきことをやって、今日という日をきちんと終わらせたい。なのにできない。そういう時に、『1973年のピンボール』を開いてここを読む。

“僕は机の引き出しから登山ナイフを取り出し、長い時間をかけてFの鉛筆を六本丁寧に削り、それからおもむろに仕事に取り組んだ。
カセット・テープで古いスタン・ゲッツを聴きながら昼まで働いた。(略)
昼休みにはビルを出て五分ばかり坂道を下り、混み合ったレストランで魚のフライを食べ、ハンバーガー・スタンドでオレンジ・ジュースを二杯たてつづけに飲んだ。それからペット・ショップに寄り、ガラスのすきまから指をつっこんでアビシニア猫と十分ばかり遊んだ。いつもどおりの昼休みでである。
部屋に戻り時計が一時を指すまでぼんやりと朝刊を眺めた。そして午後のためにもう一度六本の鉛筆を削りなおし、セブンスターの残りのフィルターを全部ちぎり取って机の上に並べた。”

 仕事に大人の事情が発生して進めにくかったり、やることが多くてどれにも手がつけられないまま時間だけが過ぎたりするような時、ここを読むとあわあわしたテンションがふつうに戻る。20年近く仕事をしてきたけれど、この本のこの描写があったからやり過ごせたあわあわは数知れない。
 結局のところ、仕事も家事もそのほかの雑事もやるしかない。もっと言えば、どんな痛みも悲しみも、いつか受け容れて生きていくしかない。やらなければいけないことを「やれる環境」を自分で作って進めていくことのできる人はおそらく、痛みや悲しみを受け容れる術を自分で探すことができる。この本には、主人公が失くしてしまったもの−−−−友達や恋人や、それらすべてを含んだ自分の青春時代への深く強い喪失感が描かれる。その喪失感の深さがこちらの胸に届くのは、主人公が淡々とそれに向き合うからだと思う。日々やるべきことをやり、失くしたものを過大評価も過小評価もせず、ただ受け容れる。惜しむ。慈しむ。『1973年のピンボール』は、村上春樹作品のすべてに通じるそういう性質が最も凝縮された1冊だと思っているけれど、主人公のそんな生き方を間近に見ていたいから、村上春樹さんの書く本を結局のところ1冊も欠かさず読むのだと思う。


あらすじ/『1973年のピンボール』村上春樹
大学卒業後、小さな翻訳会社を立ち上げて暮らしている主人公は、むかし得意だったピンボールのことを思い出す。かつて親友と通ったバーにあったピンボールマシンは、主人公にとって、戻らない青春時代の象徴であり、別れを告げてきた人々の象徴でもあった。

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