「たったひとりの“その人”」


『初秋』(ロバート・B・パーカー)について


 『ワンピース』を初めて読んだ時、私はもう立派な大人だった。人は子ども時代を恵まれた環境で過ごせなかったとしても、ひとりのまともな大人に会うことができればきちんと大きくなれる。あの魅力的な冒険譚を読んで、すでに大人の側にいた私が受け取ったテーマのひとつがそれだった。
 「その人」がどこかで見ているはずだからいけないことはできない、とか、「その人」が大切にしてくれた自分のことを粗末にはできない、とか、そういう風に永らえた子どもの命というのは、たくさんあるのだろうと思う。
 多くの子どもにとってその存在は両親だろうけれど、そうでなければいけないわけでもない。ワンピースを読んでいた時期に、義姉のところに甥っ子が生まれて、そのあとに妹が姪っ子を生んだ。そうやって小さい人間が周りに増えていくのを見ながら、子どもたちが「その人」に出会えないようなことがあったら、私が大切にしてあげるからね! と思っていた。

 『初秋』に出てくる少年ポールの生まれた環境には、まともな大人がいなかった。ポールの幼少期に離婚した父親と母親は、互いに相手を傷つけるためだけにポールを奪い合う。そのくだらないゲームの駒になったポールは、主人公の私立探偵スペンサーに初めて出会った時、ただ無気力な子どもだった。あるとき父親が母親のもとからポールを誘拐し、その捜索を引き受けたスペンサーがポールを母親のもとに送り届けた時、母親は彼氏とディナーに出かける支度をしていて、無事に戻ってきた息子よりもレストランの予約を優先させた。その様子を見ていた探偵は少年を夕食に誘う。「なぜこんなことをするの?」「きみが気の毒になったんだ。いなくなって、また家に戻っても、誰も喜んでいないようだったから」。
 その日から、ポールはスペンサーと暮らし始める。今何を食べたいか、今日をどんな風に過ごしたいかを自分で考えることのできない少年に、探偵は料理を教え、身体のトレーニングを教え、一緒に家を建てる。少年の細い体に合わせて服を仕立て、美術館を訪れ、バレエを鑑賞する。ポールがスペンサーのために「自分で適当に選んで」ランチを買ってきたり、書店で「自分の好きなバレエの本を買って」自分の余暇をその本を読むことで過ごしたり……という描写にポールの変化を見るのは、この本の楽しさのひとつだと思う。

 人を信じることを覚え、自分の意志でスペンサーのもとにいることを選んだポールに、スペンサーは告げる。「自立とは、頼る相手を両親からおれに変えることではない。自分を頼りにすることを覚えるんだ」。15歳の少年にとって厳しすぎたかもしれないその言葉を、ポールはしっかりと受けとめる。それは秋の季節が終わって、彼の冬の時代が始まることでもあった。

あらすじ/『初秋』ロバート・B・パーカー ハヤカワミステリ文庫 1988
離婚した夫婦の駆け引きの材料に使われて心を閉ざした少年と、私立探偵・スペンサーの交流を描いた物語。どんなことにも関心を示さなくなってしまった少年が自立するために、スペンサーは少年と生活を共にし、生きることのノウハウを教えていく。ハードボイルド小説スペンサーシリーズなかの、異色かつ珠玉の作品といわれた小説。

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