自分の平凡なことについて

自分は平凡だ、と人生を不可視化するような態度を取るのではなく、雑草という名の草はない、人に歴史あり、というような、誰しもがその人生において輝きを持っているのだ、なんていうのではない、そうではないもう自分はただの平凡なのだ、というのが自分のスタート地点だと、これはもう私はそのようにしてやっている。

平凡とは、自分の言葉、身体、歴史としてあるもの、自分の中に積み上がっている事実の中にまるで実感がない、という実感のことだ。自分が平凡であるとき、自分ではないものを求めざるをえない。フィクションは、この平凡な私からスタートして、私でないものに辿り着ける。これが救いだ。私にはフィクションをしか描けない直感がある。

しかし、平凡であるので、そのまま語ってもつまらない、だからフィクションによって味付けをする、という風になってしまってはおろそかだろう。

この希望はそのようなものではない。それを言葉にするなら、ではどのようなものと考えればいいのだろうか。

友達が、全ての言葉は嘘である、と宣言するように言っていたのを思い出す。

言葉は、伝わらない。伝わらないと同時に、これは伝わっている、とするしかないフィクションでもある。それは悲劇である。しかし、その悲劇は転倒的に愛することができる、フィクションの物語を楽しむように。

全ての言葉は嘘である。私の人生もまた嘘である、と言ってみる。私の人生は、私にすら伝わらない。人生がフィクションの次元にある、と思うことで愛することができるかもしれない。

もしかするとフィクションよりもデフォルメという言葉を使うのがより近い。形を崩すとか、変えるとか、して、ようやく本物である、という風に気付く。僕はこの世界で救われることを諦めていて、また、この世界であの人を救うことはもうできなくて、ここではない別の場所、遠いところ、遠い未来、それか並行世界のような、異なる別の世界でのみあなたは救われ、私は救われるのであって、それは事実と異なる世界だ。それだけが自分にとって唯一頼りにできるものであり、そこに辿り着こうとする。それは、時に事実ではない、ではなく、事実からは変わっている、別の姿であるような事実、どのような形であれ、でなく、このような形だからこそ、これは事実だ、と言える事実のことだ。

だから、この変形は否定によるものではなく、発見によるものだ。事実は事実であるまま移動し、新しい形を見つける。