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「演出家」についての再三にわたる考察

文章を「しっかり」書かないといけない、と変に気負ってしまうのは病気だなと思う。必ずしも「しっかり」書くこともない。それは何より疲れる。そんなわけで論証はサボらせてもらいます。書けるように書いた。そして読めるように読んでくれたらと思う。今日くらいお互いラフに、ラクにやりましょう。

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「演出家」とは何か、というのをもうずっと考えている。それは自分が何の因果か「演出家」という役割を担うようになったからだろう。けど「演出家」というのが、何も考えずに黙々とそれをこなすことができるようなものであれば良かった。あるいは僕がそういう性格だったならば? だったら何も考えずに素直に「演出家」でいられただろうと思う。ところがこの役割は何のためにあるか、長らく実態を掴めずにいた。

演出家誕生の経緯についてはそれなりに勉強してきた。近代という時代の複雑さに伴って現れた職能。だがそれは西洋でのこと。英語で言うところの "Theater director" と日本語の「舞台演出家」は「同じもの」だとされているが、果たしてその実態は?

まさに実際的な、実務的な場面において、これが常に問題として立ちはだかってきた。演出家という役割が、なぜ演劇においてこれほどまでに重要な要素であるとされているのか? なぜこんなにも「演出」というものが期待されているのか? そもそも演出家という職能が何をすべき役割かということすら曖昧なまま。それが分からないのは私だけだろうか? そのことは怪しい。俳優もスタッフも批評家も観客も、自分たちが何を見て、何を「演出」と呼んでいるのか、どれだけ自覚していて、かつそれがどれだけ一般的なものであるのか、まるで理解していないのではないか?

「演出」という言葉の意味は曖昧で、あらゆる要素が含められる。含められるがゆえに含めてしまわれがちだが、それはとても危険なことだと思う。この文章を読んでくれている人にも考えてほしい。「演出」とは何か? 何を指すものか?

先日まで行なっていた公演『東京ノート』の感想で次のようなものがあった。批評家の佐々木敦さんによるものだ。

この「一種の」それを「演出」と呼び、それを行う人を「演出家」と佐々木さんは呼んでいるのだろうと思われる。けれど僕には、本当にコレって演出? ここで言われている仕事(稽古場での実際のクリエイション以前に行われる、大枠のコンセプトデザイン)は「企画」とか「プロデュース」と呼ばれる領域のものじゃないの? ここではプロデューサーと演出家の区別がどうなされるのだろう? と気になってやまない。

確かに「企画」や「プロデュース」も見せ方にまつわるものである以上は「演出」と見なすことはできるだろう、まさに「一種の」ものとして。しかし、そのように「一種の」という風な言い方をしてしまうならば、「演出」の領域はどこまでも広げられてしまうのではないだろうか。

例えば上演の中で、ある俳優の動きを見て、それを「演技」と「演出」のどちらの領域のものであるか、というのは区別が難しいだろう。また区別できるものでもするものでもなく「どう演じるか」ということの中には「一種の演出」が含まれていると考える方が収まりが良いかもしれない。ではその「一種の演出」は俳優の管轄なのか? 演出家の管轄なのか?

はっきりと線引きするのは極めて難しい。しかしそれゆえに、演技における「一種の演出」もまた演出家の管轄だと見なされているように感じる瞬間は多い。またそう見なされるうちに、「演出家」はありとあらゆるものに手を口を出すことが許される役職へとズレ込んでしまっているようにも思う。言葉の曖昧であるがゆえに、目に見えないうちに権利が肥大化し、またそれが無自覚に悪用されている。一部の観客もまた共犯的にそれを楽しんでいるように僕には見える。俳優やスタッフの創造性に目を瞑って、全ては「演出」だとして観るのは楽だから。

こうした構造によって俳優は評価を演出家に搾取される。演出家も甘い汁を吸えるだけではなく、公演における責任がその背に重くのしかかる。しかし周囲からも期待される以上、その構造を変えることも難しい。分かるだろうか? これは「演出家」が専制君主だとか権力者だとか、そういう問題ではまるでない。そういう分かりやすい話では決してない。誰の目にも見えないうちに、気が付かないうちに、全く知らないうちに負担の「偏り」が、あるいは「格差」が生まれること、そのことに皆が無自覚なまま、自分で自分の首を絞めてしまっていることにこそ目を向けたい。

これは「演出」に限った話では全くない。同じことは「制作」においても起こっている。「制作」という言葉があまりにも広い領域を指し示してしまっていることもまたやはり問題だ。「企画」「広報」「会計」「運営」その全ての仕事が「制作」という一言で表されてしまっているがゆえに、「制作者」であるものが暗黙のうちにその全ての責任を負わされてしまうこと。それが傍目には見えないこと。

つまり「私は企画と広報と会計と運営の全てを行なっています!」と言えたなら、まだ周りから理解をもらえるだろう。しかし現状では「制作」の二文字で、軽んじられて片付けられてしまうのだ。

そして制作者は公演の重い負担を次々に抱え、心身ともに病んで辞めていく。そういう人を何人も知っている。そのことの原因が何なのか、どうか一緒に考えてほしい。決してそれが当人の心の弱さだとか、そういうことでないことくらいは分かるだろう? そしてこれらの役割なくして演劇が到底成り立たないことも。

演出の話に戻ろう。演劇における全てのものに「一種の演出」を見ることは確かに出来てしまう。だがそれほど単純化したものの見方もない。それらを「演出」と見なすなら、「演出家」に対抗するには俳優もスタッフも誰も彼もが「我々も演出をしている」と言わなくてはならない(オフィスマウンテン・山縣太一さんの振る舞いがこれだ)が、そんなことを言い出したらキリがない。

そうではなくて、全てのものに言えてしまうような「一種の演出」を言葉から取り除いたらどうだろうか? そこに残るものがあるとしたら、それこそが本当の意味での「演出」なのではないだろうか。

今回、亜人間都市の『東京ノート』は「演出家」というものを廃して望んでいた。だが、そこで否定していた「演出家」とは、「演出家」という職能それ自体ではなく、曖昧な言葉によって押し広げられた「演出家像」のことだったのだと今では分かる。

そうではない平凡な意味での「演出家」という役割はいつも通り僕が担う予定だったし、実際そうクレジットしていた(なので最初から演出家の必要性はまるで否定していない。誤解を受けた部分だ)。だがいろいろあって出演することになり、その役を降りることになった。それ以降のクリエイションにおいて、全体を見る「目」がなくなったことは大きな課題であり続けた。

しかし結果的に、それによって「演出家」とは何かということの本質に触れられたように思う。今作『東京ノート』に欠落したものがあったとするなら、それこそが本当の意味での「演出」なのだ。逆の言い方をするなら、今作『東京ノート』は、本当の意味での「演出」の輪郭を浮かび上がらせることに成功していたのではないだろうか。

ではそれは何だったのか? というのを言葉にするのはやはり難しいのだけど。一応僕は、「演技」「俳優」が稽古において「個人を発見する」という役割であるとしたとき、「演出」「演出家」は稽古において「社会を発見する」という役割である、と整理をつけたが、まあ、この言葉ではまだ人に伝わらないだろうと思う……。おいおいもっと適切な言葉を見つけたい。

ともかく、「演出家という中心的役割を廃してみることから、それぞれの役割を再発見する」というのが今回の公演の試みだったのだと、振り返ってみて分かった。そしてそのことは多くの観客には理解してもらえていなかった。むしろ「不在」を通して「演出家」というものの存在を強く意識させるばかりになってしまったことは大きな反省点だ。

けれどもはや、僕は公演を通して「演出家とは何か」という問題にある程度の答えを掴んだ。だからもう「演出家」だの「演技体」だの言うのは辞める。これからはわざわざ言葉にするまでもなく、全て当たり前のものとして、当たり前にあるべき関係について考えていきたい。そしてこんなせせこましいくだらないことではなく、本当に考えなくてはならないものをこそ言葉にしていきたい。