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東京ノートのこと

ちょうど1年前のことだけど、「世界観の対話」という言葉を発明した。それは2017年度ずっと考えていたことの集積で、というか演劇始めて以来の、自分にとって演劇とは何かを考えた結果の言葉だった。

平田オリザ曰く、「自分の見ているありのままの世界を表現する」というのが現代演劇の役割なのだそうだ。それは全くもってよく分かる。けど、僕は僕一人で生きていなくて、僕の見る世界とは、決して僕一人の見え方のみで構成してるものではないと思う。

その点、多くの演劇は「演出家」のたった一つの視点で見た世界を構成していらように見える。俳優やスタッフが表現するのは、演出家の「世界観」の下位に存在する「価値観」の一つ一つであって、演出家と立場を違えている。けど、それで表現できるのって結局「演出家から見た世界」でしかないわけでしょ? そもそもその「世界」が人によって異なる見え方をしている、ということに付き合う気はないのか? との疑念がずっとあった。オリザさんについてもそのことの例外でなかった。

だから「世界観の対話」のことを書いたときも、オリザさんはある種の仮想敵として登場してもらった。今は軽率な書き方だったと後悔しているけど。でもだから、そのオリザさんの書いた戯曲に向き合うのは、自分にとっては自然なことだった。もちろん、他の公演参加者は別な動機で戯曲に臨んでいると思うが。

戯曲を読みながら、書き手の人間性みたいなのを感じることがある。常に自分を律している強い人だと思う。抜けてる部分もたくさんある。人間だなあと思う。妄想かもしれないが。

相手が演劇の大先輩であり演劇界の大御所としてバリバリ現役だということは、正直とても怖い。けど、そんなん関係なくて「同じ人間なんやけん、対等やわ」と思って演劇を作っている。舐めてるのではない。なんなら前よりもずっと尊敬の念は高まっていて、だからこそ遠慮してはいけないなと感じている。

実は僕は無隣館3期に応募していて、面接で落ちた(この事実は墓場まで持っていくつもりだった)。でも、強がりでなく落ちてよかったと今や思う。でなければきっと「世界観の対話」を書くのも「東京ノート」も上演も、日和って出来なかったと思う。そこには別の未来があったかもだが、今の自分で良かった。

亜人間都市の『東京ノート』の稽古では、シーンを演じる人がいて、残りの人は全員見る人になる。俳優も、スタッフも、お客さんもみんな見る人になる。見たら可能な範囲で感想を述べる。その感想を基にそれぞれが演技を作る。ここには「演出家」というシステムが採用されていない。

けれど、演出家がいなければ上手くいくわけではない、当然ながら。演出家がいないので、各人が判断を行う。人は気を抜くと空気に流されて、対話を避けてしまう。あるいは結局別の誰か一人が場を支配してしまうことになる。そうならないために常に注意しなくてはならない。「演出家」というシステムを廃するのは茨の道である。それでも、ここにある可能性を信じていま演劇を作っている。尊重する。しかし遠慮はしない。互いの表現をぶつけ合う。そこに世界観の対話があると思う。

っていうのが『東京ノート』だと思って、僕は作っています。挑戦ではあるけど、実験ではないです。僕はここに豊かな作品を立ち上げるつもりでいます。
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