電車でサンドイッチ食べた

何かを考える人の姿というのは美しいものだ。演劇の稽古をしながら、俳優もまた、産みの苦しみに考えを巡らす、その様子にはえも言われぬ感動がある。一方で、何か美しさとは別の、みっともないような……というと失礼だが、しかしそういう風に見えてしまう悩み方をする人もいて、その違いは何か、と考えていた。

そこにあるどんづまったような感覚は、「考える」という行為の持つぐんぐんと進んでいくような勢いのない、ある種の思考の停滞のような、まるで破ることのできない壁にただただぶち当たり続けているような泥臭さ、回り道して、壁を避ければ済む話なのに……と側から見るに呆れてしまうような、そういう感じ。前の稽古でそんな様子を見た。それで帰って反省していた。彼をしてそんな風に悩ませてしまったのはどうしてだろう……自分の何が原因だったのか……。ひとつ思い当たったのは、彼一人に悩みを抱えさせてしまったことではないか、ということだ。

一人で考えても分からないことというものがある。そういう悩みに直面したときは素直に困ったと根を上げて、他の人に助言を求めていいのではないだろうか。ともかく一人で考えすぎるのはよくない。しかし、極力自分の力で物事を解決すべきだ、という考え方に晒されると、人に頼ることは簡単でなくなる。それも確かに間違った考え方ではない。頼りすぎもよくない。けれど現代人は人に頼るのが流石に苦手すぎる気がする。それは同じだけ、人を助けるというのが出来ないということでもある。彼は自分では考えきれない悩みを一人で抱え、また僕や周囲の人間は助けることが出来ずに、それを良しとしてしまったのだろうか。

人を独りにすべきではない。一方で、個人の時間を尊重すべきだ。この葛藤がとても苦しい。お節介というのは厄介だ。どうしてもしないほうがいいような気がしてしまう。それでも一人で悩む人を前に何もしないではいられない。良い干渉とはどんな風なものだろうか。携帯の充電の切れた各停電車の中で、ぼーっとそんなことを考えていた。時間のかかる帰り道だった。

大きな音がするとびっくりするのが普通だが、それが電車の中だとなおさらで、電車なんて走行音でもともとうるさいのだから多少耳が寛容になっていてもおかしくないものを、どうも大きな音には、というよりは異質な音については敏感に、過剰に反応してしまいがちだ。何か物のぶつかるような音と、また奇声というほどでもないが声、誰かの、あくびをした後に出すような間の抜けた、しかし大きな声がして、それが声だというか人の出した音だと理解したとき、その聞こえた方向をつい向いてしまう。犯人を探すように。誰が出したんだその音を。余計な詮索を止められない。

やがて何人かが席を立って、まだ次の駅に着くにはかかるのを、単に早めに立ったのか、それとも不穏な気配を感じ取ってそそくさと逃げ出したのか、などと勘ぐりながら、やがて音の出どころを突き止める。その声は斜向かいの座席に座る、マスクをした男の人から聞こえてくる。そして何かのぶつかるような音はたぶんマスクの下、よっぽど鼻の詰まっているらしく、周りに気を留めることなく鼻水を啜るので大音が鳴り響く。

他の人は気にならないのか? それとも気にならない程度の音だろうか。独り言を言っているわけでもないならそんなものか。彼はイヤホンをしているから自分の音に気が付けないのか? けどいま大きく地団駄を踏んだぞ。やっぱり変わった人なんじゃないか。下世話な関心を持ってしまう自分が嫌になる。けれど決してその人を嫌に思っている訳ではない。車両から出て行けとか、静かにしてくれとか思う訳ではない。ただ電車の中で大きな音を出したり奇声をあげたりする人がどんな人なのか興味があるだけなんだ、なんて正当化しながら、ふとその人と目が合うと慌てて目を逸らす自分がいる以上、後ろめたい気持ちを拭い去ることはできない。

目のやり場に困って逃げ着いた先には、白や赤や青や黄色、いろんな色でよごれた作業服、それとあの例のダボっとしたズボンを履いたおっちゃんは、おそらく塗装工で、僕の座る席の斜め前に立っていた。その汚れた服を見て、無性にカッコいい、と感じた。

ちょうど演劇を作る自分の周りにも舞台美術に携わる人たちがいて、彼らもやはり色とりどりによごれたを服着ている、その感じを僕はずっと羨ましいと思っていた。ちょうどジャクソン・ポロックの絵画のようで、あるいはジャクソン・ポロックがそれに触発されてアクション・ペインティングを始めたのかもしれないが、ともかく絵画的な美しさもあるのだけど、きっとそれだけではない、それよりはもっとグラフィティのような、イリーガルなカッコよさ。え、よごしちゃっていいの? 発想になかった。というような。

また別な方に目を遣れば、そこには膝の破れたデニムを履いた大学生風の若者。ダメージジーンズが持っている良さも、あの色とりどりによごれた服とかなり近いんじゃないだろうか。服がよごれる。デニムが傷む。それを通して得られるどことないカッコよさ。けれどあの若者の履いているのは、もともと破れた風にデザインされたもののような感じで、傷んではいるが馴染んではいない。それはそこまでカッコよくない。

グラフィティは、ストリートを「自分たちのもの」にする行為だ、とどこかで読んだことがある。なるほど、とその時は思ったがもしかすると少し違うかもしれない。なぜなら、あの塗装工のおっちゃんは、別によごそうとしてよごしたわけではないだろうから。けどあの作業服がもとの「誰のものでもない既製品の服」から「それでしかない彼の服」へと変わっていることは間違いない。その変化にさし挟まれているのは「よごれ」ではなく、それを通して感じられる「彼」の存在ではないだろうか。彼の存在が時間とともに染み渡り、色とりどりの「よごれ」という形で現れているのではないか。

人と人の間にも「よごれ」があったほうがいいかもしれない。例えば会話ひとつとっても、「よごれ」のない会話というのはとにかく釈然としない。そもそも「会話」というのは難しい。「一人で話す」なら簡単だ。しかし複数人での「会話」となると、下手をすると「二人」や「三人」ではなく「一人ずつ」のまま、交わされる言葉はつるつると滑って、会話に至らずにみっともなくやりとりが終わることがある。そこに足りないのが、もしかすると「よごれ」かもしれない。相手のモノローグに茶々を入れる。もしくは合いの手を入れる。相手の言葉の中に「よごれ」をさし挟む、自分の存在を主張する、一人で話すことを邪魔するような形で、独りにさせないことを通して、ようやくモノローグはダイアローグへと変わるのではないだろうか。

「自分のものにする」というような強い働きかけでなくとも、相手と向かい合いながら、ただ自分の存在を示すような在り方ができればいいのかもしれない。しかし、そのためには時間を共にしなくてはならない。服を着なくては決して「よごれ」はつかない。時間を共にしながら、相手の中に自分の存在を染み渡らせるように、そのように人と向かい合う方法。そこにこそ人を独りにしない理想の形があるような気がする。

大きな音を立てて鼻水を啜っていた彼が気になったのも、結局は同じことかもしれない。電車という公共の場において静けさを強いられている中で、彼はその音によって空間を自分のものにしていた。その自由な在り方が羨ましかったのかもしれない。

僕は持っていたサンドイッチを座席で食べた。それが僕が電車の中でできる、自由へのせめてものアクションだった。自由な在り方は、人に伝播するのかもしれない。だが、それにしてもなんてしょっぱいんだろうか……というのはもちろんサンドイッチの味のことではなく僕の取った行為の小ささのことで、悔しいのだが、しかし人は出来ることしかできない。これが僕の精一杯だと思いながらとにかく食べた。サンドイッチは誰かに伝播しただろうか?