囲んで話すことについて

人と人が話しているところを見る。そこから感じたことを話す。それもまた誰かに見られている。話しているところを見ること、見られながら話すこと、それを繰り返す集まりを作っている。

それによって何をしたいということはない。何がどうなっても構わないと思う。むしろその何が起こるかわからない中で、起こってしまったことの全てをきちんと受け止められる広さを身に付けたいと、僕はそれだけを思う。

「目の前で起こる物事には無限の可能性が詰まっていて全てが面白い」とそう言ったとき、それは全くの綺麗事だと思う。けど、その綺麗事をフィクションと捉えて、フィクションを信じる/演じる、ということをする、一つの訓練かもしれない、と自分の行なっていることを振り返って思う。

目の前で起こること、それをきっかけとして自分の中で起こること、思い出される様々、例えばそれは蜜を吸ったときに中にいたアリと一緒に吸ってしまったサルビアの花のプランターが階段に並べられたあの二つの丸い赤い小窓がまるで目のようだった体育館のひょうきんな顔のことや、初めて一人で旅をした夜行バスの夜明けに排気ガスで荒んだ東京の空気の悪さを胸いっぱいに吸い込んだこと、兄と近所を冒険していたときに人の畑に植えられていたサトウキビを勝手に折ってかじった甘さがありありと思い出せるのに近所にサトウキビが植えられていたことは一度もないということ、そうした一つ一つの時間といま目の前で起こる物事がどこかで繋がっているのだとしたらそれは何によるものなのか? 卑小で壮大な謎解き。それが自分を知るための唯一の方法であり、かつ目の前のその人が何者であるかを解き明かすことでもあるのだとしたら。

もはや面白いだのなんだのという価値観は消え去っていて、人生についての大いなる謎だけが横たわる。人と一緒にいながらここには私ひとりしかいなくて、かつ誰かに支えられて初めて自分が存在していることを知る。

これを繰り返すことが生きることであるからこそ繰り返す。しかし生きることは気を抜くと惰性になってしまうからこそ自覚の元に繰り返す。

そうして生きる自分自身の身体が誰かに見られているなら、きっと影響を与えてしまうことについて、より自覚を持って影響を与える。何に立ち向かっているのかは人によって異なるとしても、何かに立ち向かっているということを共有することなら出来るだろう。それが場を共にするということだ。私たちはばらばらでありながらひとつであれる。

また来月も繰り返す。何度も繰り返す。その度ごとに変わるものを受け入れる。前よりももっと、なんて風には考えない。ただ受け入れる。それを通して知りたいことは何か、それを知るために。